グッド・モーニング ますたに

昨夜も深酒した。日々年末感を飲み干してる。ミングルで開催されたなっちゃんと家口さんの鍵ハモとシンセ(2人とも片手で鍵ハモを吹きながら片手でシンセも弾く)のクリスマスコンサートはめちゃくちゃよかった。目を開けば目前でめちゃくちゃ難しいことをしてるのに目を閉じればアンビエントかつエモい絡み合いのあるセッションだった。ベースの音もナウい感じでカッコよかった。

 

朝はやはり雪が降っていて、大雪警報も発令された。寒すぎて毛布から出られない。でも昨日焼いたパナマのコーヒー豆を浄土寺のzigzagに届けなきゃだし頑張って腰を上げた。デカフェを半分ブレンドしたコーヒーを飲みながらふじちゃんと昨夜の面白かったことを色々話して思い出し笑いをする。いつもと同じ朝だけど、文字にしてみたら尊いな。デカフェが混ざったコーヒーは丸い味がした。室温ですぐ冷たくなる。こたつの部屋では昨日家口さんから買ったmarronさんとのレコードが回ってる。すごく良い音楽!!

 

玄関から比叡山を眺めるとやはりてっぺんは白くなっており、アスファルトを見下ろすと積もってはいなかった。最近よく見かける1羽でウロウロしてる白くて丸い鳥が鳩のようにうろうろしていて何か食べてるのかなと観察する。小さい石のようなものを啄んでは投げたりしていて、そのかわいさに全身がじわり痺れた。ガビーからもらったフードに首を突っ込んで久々に自転車の鍵を上げた。職場が宇治なので徒歩と電車ばかりの生活になった。思えば小学生の時から30歳になるまで毎日何キロも自転車を走らせていたような。自転車にあまり乗らなくなると、ただの移動手段というよりスポーツしてる感覚が蘇ってくる。そういえばこの自転車もガビーからもらったものだわ。古いけどまだ乗れそう。雪がサラサラ降ってる。信号待ちで鴨川の鳥を見る。雪がサラサラ降ってる。信号待ちで百万遍に居る。今日は吉田寮のクリパがあるらしい。雪は光る。信号待ちでマスクを外す、ますたにの匂いがした。

 

浄土寺エリアに入るとみーこさんに会った。浄土寺エリアに入るといつも急いでどこかに向かってるみーこさんに会う。こないだはありがとうと言い合って別れた。

 

浄土寺zigzagに着いたら開いていなかった。インスタのDMを確認したら昼過ぎから開くっぽい事書いてる。まだ朝の10時だしコーヒー豆を店の外に置いてあるチャリの籠に入れた。もし盗られてたらまた昼過ぎに持って行こう。

 

久々にますたにに行くことにした。浄土寺のシェアハウスに住んでた時は近かったから何も考えずによく行っていた。今では外でラーメン食べる事もほとんどなくなった。木屋町でみよしに紅しょうが突っ込んだものくらいしか...。

 

先日ごみ収集員だった時の大先輩の高田さんが亡くなって深い縁のある吉田寮食堂でお別れ会が開かれた。故人が最近稲刈りを手伝ったという泉さんの田んぼで取れた稲で飾られた祭壇が美し過ぎて、胸が苦しくなり、久々にに会う仲間たちともあまり話をせず手を合わせた後すぐに離れてしまった。あの日吉田寮食堂に覚えのある匂いが漂っていた。祭壇にはますたにのラーメンが御供えされていた。テイクアウトしてきたものらしい。彼はますたにがとても好きだったし、ますたにを20歳の僕に教えてくれたのも彼だったと思う。ごみ収集車の中でよくラーメン談義をしたし、お昼ますたににもよく連れて行ってくれた。ごみ収集車は肩身が狭くなっており路駐してるものならすぐに通報されるようになっているので彼は2人の収集員をますたににおろして通報されない場所に移動してくれていた。ラーメンを食べ終わり彼の携帯に電話をかけると迎えに来てくれることになっていて、彼の電話番号が僕のアドレス帳に入っている。彼に電話をかけるのはその時だけだった。ほとんどのドライバーはそんな面倒な事はせず収集員たちを会社や再搬所まで送って昼休憩をとるのだ。出勤し、アルコールチェックをして、配車表のメンバーを確認する。今日は高田さんと東部か、ますたにだな。という具合で仕事が始まっていたことを思い出す。思い出す...。

 

ますたには朝10時からやっておりラーメンとチャーシューメンとごはんとたくあんしかメニューがない。ドリンクも水だけ。たくあんは頼んだことがない。100円するけど頼む人いるのかなといつも思う。今日もラーメン大、ネギ多めで頼む。このネギがくさすぎて好きだな。大盛りは2玉の中華麺がどんぶりいっぱいに詰められていて、真ん中から掘っていくように食べる。餅のように固まりかけた麺をほぐしながら食べていると密度がすごいのでスープに絡まないからテーブルに置いてあるカエシと透明のお酢、唐辛子をかけながら食べる。スープはモツ鍋のようだと思う。モツ鍋の締めを食べてるような感じ。おいしいね。

 

タバコを買って家に帰るとふじちゃんは最近勉強してる日本画のニュアンスで年賀状に虎を描いていた。上手くなってると思った。昨日ミングルで買ってきたboredomsのSUPER77のレコードを回してる。最初聴いた時音がすごく悪かったけどそういうもんだよねという思い。針の埃をとって聴き直すと全然違ってめちゃ良いわこれ。NEU!グランジ的な解釈だと思う。

 

みんな元気?

 

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ライブを観に行った。

SUZMENBA、数えきれない、ムーズムズ。

DJは森川さん、井上さん、仙石さん。

THEアバンギルドって感じのパーティで、2回コロナでキャンセルになったこともありみんなが待ち望んでやってきた感があった!テーブルは出ていたけど満員だった。久しぶりにすげー踊った。たくさん涙が出る瞬間があった。生きていて良かったと心底思った。僕もライブしたいなと思った。

 

自粛期間を経て、いつの間にか人に会うことがとても苦手になったなと感じている。でもそれなりに生活はできるようになってきていて、鬱との付き合いも慣れてきた。コーヒー豆もたくさん焼いている。

 

だけど、パーティが繋いできたコミュニティって本当にかけがえのないものだと思う。

僕らは病気になった時どうすればいいんだろう。コロナなら病院に行く。でも鬱なら?

仕事や学校など鬱の原因が環境にあることがわかっているなら、その環境を変えるために必要な精神的な松葉杖を病院に行って処方してもらう事が出来るかもしれない。

でも薬を飲んでも社会的な環境は自分の力だけでは変えることはなかなかできない事ばかりだし、そもそも薬は特効薬などないから付き合い方も難しく、通院でさえ慣れていないと難しいだろう。服薬自体にも大きなリスクがある。病気になる前の段階で、小さな問題を解決できていけば元気でいられるのにね。

 

そういった生きるための知恵をどこで交換できるのか。悩みを相談する相手は誰なのか。

SNSにはたくさん知人がいる。会わなくても彼らが生きているような気がして、会う必要がなくなってくるのかもしれない。でもほんとはそんな事ないはず。会いたいってどういう気持ちなんだろう。

会うって事は誰かを身近に感じたいという事だ。だけど行為としては自分を相手に身近に感じさせてしまう事でもある。これがすごくプレッシャーに感じて嫌だ。

誰かに会いたければ連絡をすればいいだけなんだけど、会って自分の事を好きになってもらわないといけない。好きじゃない人と一緒にいるのは本当に苦痛だから。当然だけど色んな人に好かれるような人には誰もなれない。面白い事を言ったりすることもできない。目の前にいる人を自分という存在を用いて楽しませる事ができない。そう悩んでいる人は大勢いるんじゃないかなと思う。まあぼくはそうなんだけど。だから目的なく人に連絡して会うということは難しい。

 

でもパーティはそれを解決する。

 

パーティの根本はみんなを呼ぶ事だ。みんなが集まればコミュニケーションが発生する。会話だけじゃ追いつかない存在を用いた原始的なコミュニケーションが。好きな人たちを身近に感じる事ができるし、同時に安心して他者にもなれる。そういうのが良いパーティだと思う。企画者目線だと様々な状況のオーディエンスに配慮したセッティングは大変なんだけど。

 

これが年一回の健康診断よりもぼくらの生活を支えてくれるように思った。そろそろ次のコロナが猛威をふるい、再び僕らは分断されるのかもしれない。2月にライブの予定をいれたけれど、キャンセルになるかもしれないと思っている。だけどこの日のパーティの記憶はきっと死ぬまで消えない。それくらいのインパクトがあったから。脳内であの日は続いているし、頭の中で遊んでるよ。

 

https://youtu.be/brBkltukTHY

 

 

 

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昨日はふじちゃんとななちゃんの家を訪ねて、物資と料理を届けた。そのあと一人も入れない満員過ぎるやきとり一番に振られたあとゴールデンモジャホールにいったね。ほんとに幸せな時間だった。そんな時にサザンの後に佐野千明さんのやさしい魔法が流れて、とても好きな歌なんだけど、胸が押しつぶされるくらいのキラーチューンだから最近はあまり聴かないようにしてたけど、大事なこと思い出した。大事なこと思い出すような歌が必要だということを。

 

朝はサザンの1stを聴きながらギターの練習してた。めちゃいいけど酷いアルバムだった!最高とは言えない。でもめちゃくちゃ気持ち良くギターが弾けるんだ!!!!!!!

労い

なぜ自分が自分として生まれて生きているのか。なぜこうも矛盾だらけで暴力を求め思考停止している人類の一員として存在しているのか。

それが分からないから生きているのか。それが分からないから死にたいのか。

何も分からないよね。

ギター

NIRVANAをここ数ヶ月毎日聴いていて、魂がとても癒されている。彼らからはいろんなことを学んだけれど、ギターリフからでさえいろんな世界を作ることができるということが一番大きな学びかもしれない。

あと、やっぱりショートスケールが最高だということ。ダンエレのピックアップ変えられたらいいんだけど、ザグリ入れるとバラバラになるみたいだからムスタング買おう。

でかい音出したい。みんなで

パンクとは

金を稼ぐことを推奨しない金持ちと、金を稼いでドブに捨てることを推奨している金持ちたちがやってるロックやヒップホップを聴いてきて分かった事。グランジティーンズの無気力さを肯定し、道標が存在しないことを表現してる。素直な貧者は不完全な複製を続けて消費の速さに耐え得る無価値を生産する。

 

https://music.apple.com/jp/playlist/they-tell-me-not-to-make-money-or-to-make-money-and/pl.u-6mo4PYyIlXPzoG

よんじゅ君のサヨ族のアルバム聞かせてもらってテキスト書きました。

よんじゅ君のサヨ族のアルバム聞かせてもらってテキスト書きました。

https://tallgrassrecords.jimdofree.com/news/

 

 

childhood in the cloudへのテキスト

生きてるだけで苦しくない人っているんだろうか。今の体調が苦しいから苦しくない状態を想像できる。苦しくない状態はさぞかし苦しくないだろう。肉体を失った後のことは想像することを禁じられているようだ。想像するほど苦しむことになるから。

ぼくは使ったことないんだけどアクティブノイズキャンセリングという機能が今のヘッドフォンには搭載されており、外界のノイズの逆の波形のノイズを生み出し、騒音を打ち消す機能なのだけど、演奏を録音するという行為はまさにこう言ったことなのだと思う。

外側には打ち消したいノイズが満ち満ちている。それを打ち消すために他者に向けてノイズを発する。自分が社会的な存在であると信じたくなった時、理想とのギャップは摩擦音を発生させる。これは発達過程における初めて内側から発せられるノイズだろう。ぼくらは外側と内側の両側から発せられるノイズに挟まれている。全てに対してなんのために存在しているのか問い続ける時だけ神を認識する。神の暴力が一番うるさい。

ぼくは神にこう思う。「ムカつく」

戦争だって、幻聴だって、神のせいにすることができる。生きているだけで二酸化炭素を吐き続けてしまうように、工夫し続けなければ神を産み続けてしまうのが人間だ。

"Childhood In the Cloud" にはさまざまな楽器の音が収録されていて、音を聞くだけだとどんな形の楽器か形を想像することができない。全てがプラグインで作られたビートミュージックでさえ、808や404などの機体が目に浮かぶのに。何から音が発せられているか分かると安心する。食品の原材料名がわかると安心するように。このアルバムが昆虫の発生させた音を加工して構成されていると知った時、ハッとした。ぼくには黒い馬が数頭広い牧場をかけている風景が見えていたことを情報との差異をきっかけとして認識したからだった。昆虫くらいドーパミンが出たら起き上がる苦しみが和らぐだろうなと思った。今日は区役所に行って国民健康保険料の減額の交渉に行ってくる。いつまで生きられるだろうか。

 

長内納