time

時間が少なくなっていく。何もしないということは死に向かって逃げているということなのかな。向き合いたくなさってあるよね。後悔したくないだなんて誰しもが思っているとは思うんだけど、コツコツ何かをやり続けて成功するっていうのは全く違うんだっていう気持ちもある。それはいつの間にか溜まった金を一瞬で何かに変えてしまう買い物の感覚に毒されているということなんだろうかとふと思ったりするよね。僕はそんなに欲しいものないけどこの世のすべては買い物のエクスタシーで回っているように感じる。僕には一生懸命作ったものを売って、手放す感覚を続ける精神力は無いけど。作ることと売ることと、買うことに生じるエネルギーは全然違うんだよね。寂しいんだよね。孤独ではないことが。たくさんの人が癒えることのない寂しさに怯えていることとか、それを僕があるいは誰かがどうにかできない事実とか。何かに向き合うことでしか生まれないエネルギーは存在する。シンプルな作業、生み出す作業、飲み込む作業、練習のような作業など。そういうことで結晶化した時間が

消費される一瞬のために真剣な人は多いよね。

美しいとは思うけれど肯定はできないのかも。

音楽のことを考えると、音楽を手放しに肯定できないように。

ヤバいほど喜びたいなと思ったときに、ギャンブルは輝いて見えるかもしれないよね。そのあとで空しくなっても、ギャンブル以外だって栄光は一瞬のものでしかないから何でもそのあと空しくなるものだ。

人と話してうれしくなることでさえ疑問を感じるようになってきた。

生きているうちに愛している人々へ愛を届けたいなと思うけど、話すことでも、金や何かを渡すことでも、少なからず何かを伝えられはするのかもしれないけれど、満足はできないし、結局後から空しくなるよね。死んでも後から空しくなるのかも。

鳥は美しい。水は光を波にして時間の外へ連れて行ってくれるから優しい。

残酷な真実を伝えてくれる存在は尊い

生きているうちにできることって何だろう。したいことなんてないのかも。

コロナ禍が浮き彫りにした現実は僕を目覚めさせたのか、盲目にさせたのかわからない。言葉にすればそのどちらの目も存在するんだろうけれど、そんなに重要ではなくて。何かに夢中になっているときの快感に正直で居たくない。そのあとの空しさが怖いから。死んじゃダメだって強く思ってるけど、それは死んではいけない理由が無いからだ。みんなが何かに夢中になっている世界はとても静かで独りぼっちになれる宇宙なのかもしれないけど、協力しなきゃ面白くないことだらけなので対話していかなきゃとも思う。ずっとずっとこんな仕方がないことを考えすぎているのにも飽きた。