非サイケデリック

サイケデリックという形容詞が生まれてからギターアンプ、ディレイ、ファズなどロックにまつわるものがほとんどサイケデリックな音である事に人類は気づいてしまった。それからというものあらゆる音楽レビューにサイケデリックという言葉が乱用されてきた。

ロックの生み出した退廃的、陶酔的、上昇的、下降的、回転的、彩色的、モノクロ的な感覚全てがサイケデリックのに一言で終わらせられる事に凄くしんどさを感じる。みんなの手のひらに触れて動く絵がある現在、音楽におけるサイケは全くありがたいものではない。

幾何学模様のラストライヴ(いまだに信じられないほど素晴らしい演奏だった。)で思ったけれど、彼らの音楽はアートワークの雰囲気やファッション含めてサイケデリックな雰囲気が強いけれど、肝心な音楽はただのプログレクラウドロックサンプラーではなくしっかりとオルタナティブ志向な作りになっている。つまりファクトチェックされた信頼性のあるソースを用いて、常に少し新しい音楽のリフを生み出し続けてきたという事。

音像の主張や演奏の技能さえも、音楽の種と言える小さいリフの発想次第で意味が変わる。

セッションの中、古いレコードの中、何気ない鼻歌、midiキーボードを適当に触ってクオンタイズしたフレーズ、どこから拾い上げても良いんだけど、何の原石を拾い上げるのかが重要という事。

例えば金やダイヤモンドなど価値がすでに確立している原石を拾ってもいくら磨いてもその重さ分の価値を超えることはできない。名付けられていなそうな石を拾って磨くというのがオルタナティブロックを作曲するという行為であり、その行為が自体非サイケデリックだと思う。常に拾った石を色んな物と比べ続けながら磨いていかないとすぐに耳触りの良いだけの保守的なリフとなってしまったり、信頼性のあるソースが少な過ぎる陰謀論のようなリフになってしまうからだ。陶酔している暇が無い。

 

僕は去年から非サイケをテーマに音楽をやってるんだけど、そうすると音色の必然性を厳しく確かめるようになった。音域と、残響音を含めた音の長さはコントロールが難しい部分だからこそ必然性に大きく関わってくる要素。何のためにここで低音が強いのか、弱いのか、何故ここでリバーブが必要なのか、必要では無いのかなど自問自答したり、バンドメンバーに聞いたりして今のユリシーズの音楽ができてる。

 

そもそも、サイケデリック・ロックに限らずあらゆる音楽ジャンルは同じドラッグ(アシッドから恋愛、戦争まで)をテイクして、精神状態をシェアした状態を用いて非言語下で音楽的イディオムやクリシェ、グルーヴを味わう事で確立されている催眠だと思う。そういう意味では音楽を聴くということは無意識下で必然性と向き合せられるという事。

歪んだゴーストが理解について語りかけてくる。ここではこれが当然だろうという前提を鵜呑みにするのではなく、ちゃんとゴーストと対話して対案を提示し続けるという事が作曲において1番重要で醍醐味だと思う。

 

ライブ機会あったら観にきて欲しい。音楽も人も変わり続けていくから、live