feelings, NONAME 20230325リリースします。

https://twitter.com/coffee_ippku/status/1636286690980687872?s=46&t=4wLEiJvehN77j6X9df6Hwg

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KASHIKOI ULYSSES
"feelings, NONAME"
20230325 release.

REC at studio INO by Satoshi Yoshioka.
Mixing : Keisuke Ezoe @EzoeEndlessSumm
Mastering : Ippei Suda @IppeiSuda
Artwork : aeonfade

 

その前にKASHIKOI ULYSSESは今何をしてるのか書いておきます。

毎週、それぞれにほとんど無い余暇を寄せ集めて、出町柳のスタジオで寄り合わす。

バンドのdiscordサーバー上で今聴いている音楽をシェアしたり、曲のアレンジを練ったりしてる。

今年こそレコードを作ることを目標に現在は京都近辺在住の5人を中心に活動しています。

 


3/25に各種サブスクでリリースされる「feelings, NONAME」というシングルはコロナ禍に入ってバンド活動を休止せざるを得なくなり、osamuosanaiの宅録プロジェクトととして始めたGASOLINE・STANDで作った曲です。コロナ禍以降の再スタートはこの曲のセルフカバーから始まります。どう思いますか?

 


この曲の歌詞は「誰も笑わないで欲しい」という僕からみんなへの要望が主題となっており、Fmaj7 Cmaj7 Fmaj7 G2弦3フレット Fmaj7(2弦解放) C Dm C のループの上でリフレインされています。

ここで言う"笑い"とは、嘲笑や冷笑の事です。嫌じゃ無いですか? 僕はかなりそういう"笑い"がしんど過ぎて、ギリギリここまで生き延びてきたけれどずっと嫌だった。嫌なことを嫌だと言うことが出来ないように調教されてしまうと、主観的に異端だと思う対象を冷笑するようになるんだと思います。嫌なことを嫌だと言うのには人によっては訓練が必要だと思うし、NOと意思表示することによって急に危険な状況になってしまう位置に居る人がほとんどだとも思います。でも、僕たちが今ある程度生存できたのは、赤ちゃんの時にちゃんと意思表示出来ていたから。生まれたばかりの人間は嫌だと言う意思表示しか出来ない生き物。それさえ出来ないと生存出来る可能性はかなり低くなる。前ならえは気持ち悪いから死ぬより嫌だ。自分のことを愛する事が大切なのは当然として、自分にとって死守したいものはなんなのか、名前や見た目など自分にまつわるほとんど全てが削ぎ落とされた時に、自分が自分であるために譲れない部分とはなんなのか、それが名付ける事が出来ない感情なんだと思う。

嫌と言えないとストレスで怒りが生じる。その怒りは自分や他者に向けられるが、原因が解決しないかぎり生じ続ける。そのうち繊細なシナプスは焼き切れてしまう。怒りは生じさせられるものではなく、提示するものであるべきだ。親や教師に怒られ過ぎた結果、怒り無きコミュニケーションには心動かされなくなってしまっていた(激辛じゃ無いと食べた気がしない感じに似ている)。言葉が使えるならコミュニケーションに怒りは必要無い。怒りは助けを求める悲鳴であるとともに怒りは言葉が届かない大きなものに対して提示すべき武器である。怒る前に嫌なことには嫌と言って断り、聞く耳を持たないものに対して冷静に怒りを提示する人が増えたら余計な怒りは減ると思う。(怒りは嫌いだ。でももうずっとこの国の政府やレイシストたち、家父長制にはうんざりだ。今すぐ消えて欲しい。)

 


コロナ禍で感じた事はたくさんあった。政府の対応の絶望と未来への不安、貧困の苦しみ、病と薬との付き合い方の難しさ、腐った特権を死守するために誤った情報を流され続けるタイムラインへの悲しみ。子供の時ショッピングモールで聴き続けたあの曲が夕食の事だけを考えていたら良かった懐かしい時間に連れ戻す。だけど僕たちは脳みそにプログラムされたクリシェをハッキングする。腕力で組み替えて、違和感がある方が良い。違和感が意図になるまで、もう一回そこからやってみよう。もう一回、もう一回。それでも毎回違うからこの曲はバンドでやる必要があった。

 

 

 

 


このトラックの聴いて欲しいこだわりポイントはここです。「イントロは鴨川デルタの先端でカセットテープで録音したサックスの音をラジカセ搭載のスピーカーから出して再度コンデンサマイクで録音したもの。そこからゆきさんのギターフィードバックを四つ重ねて入れた。「そのままで」の前部分、デルタの先端で録音した水の音、小金井のパッカー車の音、鴨川デルタの先端で録音したサックスのテープ音源後半をライン出力し、七度ピッチシフトして、オートチューンで黒鍵だけなぞるようにしたものを挟み、その後のサックスも雅楽の笙をイメージしたピッチシフトをミックスしたものをいれました。」

 

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PAVEMENT観た!!!!なんばhatchで!!!

コロナ禍に入ってバンド活動が上手くいかなくて、ギターの弾き方を忘れてしまった頃に聴き始めたpavementにめちゃくちゃ衝撃を受けて、毎日聴くようになった。来日する事が決まり、すぐにチケット取った。

でもその頃(今日)に僕やpavementのみんなが生きてる保証も無かったし、本当にライヴが観れるかどうかなんて分からなかったんだけど、とにかく生き延びるための希望になった。
チケットを買った直後に香川のipppenさんから連絡があり、「pavementを一緒に観よう、チケットも買っておきます」

その連絡にとてもびっくりして、とりあえず僕はもうチケット取った事を伝えたら彼もびっくりしていた。
今日久々に再会できてすごく嬉しかった。写真とか撮れば良かった。
そしてなんと初期ロットの90年turbo RATを譲ってくれた!これ毎日メルカリみて探してたやつです!
しかも先日rat壊れたばかり!

なんで僕の欲しいものを知ってるんだろうか。明日のスタジオで早速鳴らしてみる。

turbo RATは90年代にpavementsonic youthがプリアンプとして使っていた名機です。初期ロットめちゃくちゃ欲しかったんです。

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pavementの音楽に完全に心酔する前は、人の心や自分の心、あるいは社会や歴史を動かすことに全身全霊を注ぐエネルギッシュな表現にジーンときてたけど、pavementはそれらと比べて真逆のように感じる。でも彼らが音楽と向き合った先に我々が居るんだ。我々が社会であり歴史だと知る。彼らの目を通して。彼らは音楽を通してあらゆる視点を提供してくれる。

 

なんばに向かう地下鉄たくさん人が乗ってるけど、みんな普通の顔してドキドキしながらpavement聴いてるんだと思ったら面白い。変わり者過ぎるだろ。

 

もし音楽が聴けないくらい疲れてしまって、音楽嫌いになりそうな人が居たら、PAVEMENTをそっとおすすめしてあげよう。音楽オタクの最後の砦。リスナーが主役。そばに居てくれるだけのケアのロック。
今夜の演奏は本当に素晴らしかったです。ありがとう。

 

いつも音だけ聴いてるとソングライティングのことや、ギターの音、歌い方について考えさせられる事が多い。曲が好きだから。
でもpavementを直接見て思ったのは、音は楽器から出てくるけれど、音楽は人から鳴らされるものなんだという事。ソングライターやシンガーだけではバンドの魔法は生まれない。

 

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非サイケデリック

サイケデリックという形容詞が生まれてからギターアンプ、ディレイ、ファズなどロックにまつわるものがほとんどサイケデリックな音である事に人類は気づいてしまった。それからというものあらゆる音楽レビューにサイケデリックという言葉が乱用されてきた。

ロックの生み出した退廃的、陶酔的、上昇的、下降的、回転的、彩色的、モノクロ的な感覚全てがサイケデリックのに一言で終わらせられる事に凄くしんどさを感じる。みんなの手のひらに触れて動く絵がある現在、音楽におけるサイケは全くありがたいものではない。

幾何学模様のラストライヴ(いまだに信じられないほど素晴らしい演奏だった。)で思ったけれど、彼らの音楽はアートワークの雰囲気やファッション含めてサイケデリックな雰囲気が強いけれど、肝心な音楽はただのプログレクラウドロックサンプラーではなくしっかりとオルタナティブ志向な作りになっている。つまりファクトチェックされた信頼性のあるソースを用いて、常に少し新しい音楽のリフを生み出し続けてきたという事。

音像の主張や演奏の技能さえも、音楽の種と言える小さいリフの発想次第で意味が変わる。

セッションの中、古いレコードの中、何気ない鼻歌、midiキーボードを適当に触ってクオンタイズしたフレーズ、どこから拾い上げても良いんだけど、何の原石を拾い上げるのかが重要という事。

例えば金やダイヤモンドなど価値がすでに確立している原石を拾ってもいくら磨いてもその重さ分の価値を超えることはできない。名付けられていなそうな石を拾って磨くというのがオルタナティブロックを作曲するという行為であり、その行為が自体非サイケデリックだと思う。常に拾った石を色んな物と比べ続けながら磨いていかないとすぐに耳触りの良いだけの保守的なリフとなってしまったり、信頼性のあるソースが少な過ぎる陰謀論のようなリフになってしまうからだ。陶酔している暇が無い。

 

僕は去年から非サイケをテーマに音楽をやってるんだけど、そうすると音色の必然性を厳しく確かめるようになった。音域と、残響音を含めた音の長さはコントロールが難しい部分だからこそ必然性に大きく関わってくる要素。何のためにここで低音が強いのか、弱いのか、何故ここでリバーブが必要なのか、必要では無いのかなど自問自答したり、バンドメンバーに聞いたりして今のユリシーズの音楽ができてる。

 

そもそも、サイケデリック・ロックに限らずあらゆる音楽ジャンルは同じドラッグ(アシッドから恋愛、戦争まで)をテイクして、精神状態をシェアした状態を用いて非言語下で音楽的イディオムやクリシェ、グルーヴを味わう事で確立されている催眠だと思う。そういう意味では音楽を聴くということは無意識下で必然性と向き合せられるという事。

歪んだゴーストが理解について語りかけてくる。ここではこれが当然だろうという前提を鵜呑みにするのではなく、ちゃんとゴーストと対話して対案を提示し続けるという事が作曲において1番重要で醍醐味だと思う。

 

ライブ機会あったら観にきて欲しい。音楽も人も変わり続けていくから、live

 

神大丈夫?

貧困により飢餓になる。

尊厳がなくなる。愛に飢える。

そんな人達にとって神は愛の光。

食べ物が食べられなくても神の愛があれば救いがある。

神は自分を愛してくれるから、違う神を信じる者を否定して戦争が起きる。愛を求めるが故に盲目的になってしまう。

食べ物や愛に飢えなくなった人は神を必要としなくなる。でもそういう富裕層が貧困を生み出しているので彼らがマジョリティになることはない。貧困が神を生み出し、神が戦争を生み出している。神が飢える人に手を差し伸べる。

今は誰でも神になれる時代。愛の言葉や信じたい未来を予言してもらいたい人があまりにも多いから。

僕は僕の作った音楽をいろんな人に聴いてもらいたいと思っているんだけれど、神も同じ気持ち?

神は自分の言葉を聞いてもらいたいのかな。

神の言葉はバズり続けてる。

自分は他者だった。

自分は他者だった。そんな事、気づいていたけれど、理解したのは初めてだった。

勝浦さんが以前、コンタクトをつけたままにしていたからか眼球の表面に張り付いてしまって取れなくなってしまった事があった。無理やり取ると目の表面も剥がれてしまって、痛くなったって。

ぼく自身も取れなくなったコンタクトのようにくっついてしまっていた。何がくっついていたのかと言うと、ぼくという人間とぼく自身。

子供の時から窮屈だなーと思っていた。身体が弱かったし、貧乏で、両親は怖くて、自分の見た目や性格が嫌いだった。体が弱かった事も、貧乏だったことも、両親が怖かったことも、それによって自分のことが嫌いな事も、自分で選び取ったものでは無いし、今生きている事も偶然。そのうち死ぬことは必然。生きている事が偶然で、生きている理由も分からないのに、なんかとても恐ろしさを持った死はすぐに目の前に立っていて、人生は本当にクソゲーだと思う。でも人間が作った面白い作品とかが割と残っていて、悪く無い部分もあるけれど、それでも辛い事ばかり目に入ってしまう。ずっと胃がチクチクと痛いんだ。

そんな辛さと共に生きている事も全部偶然。だからぼくは必然性が欲しい。なぜここに存在しているのか、納得できる理由をいつも求めている。音楽もセオリーより必然性をとても大事にしている。それはそのメロディの存在を大切にする概念だと感じているから。なんでもありだと、把握しきれない。デザイン的には把握できる範囲の情報量を綺麗に並べたい。

 

最近髪を青く染めたら緑になった。メガネが似合わなくなったからコンタクトを買いに行った。まだ取り外しに苦戦している。

 

日曜日、3曲ミックスが終わった。江添さんのホームスタジオで集中して作業をした。その後江添さんと、ゆきさんと勝浦さんと酒を飲んだ。完成した感じがあり、かなり嬉しかったし、ビールが美味かった。勝浦さんと西院から歩いて出町柳に帰ってきた。出町柳で勝浦さんと別れて、家に帰っている時に急に自分に対して感謝とリスペクトを初めて感じた。不思議な体験だった。自分は自分の事を欺けないというシステムを初めて知覚した。

他者から何か言われた時に(特に感謝やリスペクトを表現するポジティブな言葉)それを信じるということは「欺かれるリスクを背負って信用している」ということ。だから気持ちを伝えるってほんとに難しいと思う。難しいよ...。ぼくは周りにいる友人を尊敬していて、貴重な人生の一部を使ってぼくの相手をしてくれることに感謝している。彼らにありがとうと言うことはあれど、その言葉にこの気持ちを詰め込んで伝えることは不可能だし、する必要も無いと思ってる。でもそういう友人に対して感じている感謝と尊敬を自分自身に初めて感じた。その気持ちは言葉を介さず心から心へ伝わるものだから(内部で起きていることなので)生まれて初めて感謝されて気持ち良すぎて大号泣してずっと道を譲る大鉄(浦安鉄筋家族)の気持ちが分かったようだった。

(しんどくて面倒な事が沢山ある人生だったのに、今日良い録音が3曲できて、良くここまで付き合ってくれた。ありがとー...。)

そう自分に言ったし、言われた。

自分はどちら側でもある。でも生まれた時から今の自分じゃ無い。今の自分が存在するのも偶然なんだけど、今は自分の意志で音楽したり、仕事したりして生きてる。意識はグラデーションだからどこからそれ以前、以降と線引きする事はできない。でも明らかに肉体は老いていてついてきてくれている。古いギターを弾いたり、ボロい車を運転してるような気持ちがある。

来週初めて胃カメラを飲む。ギターと一緒で身体もオーバーホールしなきゃと思ったんだ。

まじで生まれてからずっと色々あって毎日大変なんだけど、よくここまでギリギリ辿り着いたと思うよ。時間が無いから慎重さを保ちつつギアをあげていこう。

松本君への私信

創作するためには時間と環境を自分に用意するのが一番重要だと思います。ただの日記なら今すぐに書けば良いだけですが、人に読ませるための作品を書き切るつもりならば、冷静な精神で推敲する必要があります。音楽もそうだし。僕らは基本的にライブハウスで演奏するバンドをやっています。ライブハウスというのは酒場です。酒場のミュージックな訳です。盛り上がったり、しんみりしたり酒呑たちがオーディエンスな訳ですね。でも、僕はライブは大事だと思っているけれど、鼻歌でできたメロディと歌詞を音楽にしているわけだから、誰かの鼻歌になってもらうための音楽だと思っているんです。そのために録音しています。酒場のミュージックの場合、演奏している人も酒を飲んで、場の雰囲気をオーディエンスと共有して演奏するのがコツだと思います。ユリシーズはみんな酷い酒飲みですがライブの時に酒を飲まないようになりました。すると音楽の質がやっぱり変わってきたように思います。人前で演奏したり、人と話したりもそうだけど、酒を飲まないと辛くて辛くて出来なかったんですけど、今は演奏する一音一音への意味が深くなっていて、その繊細なニュアンスを演奏で表現するために素面でないと、実現出来ない音楽を演奏するバンドになりました。でもそれは演奏者としての認識でしかなくて、リスナー的には何が変わったのかあまりよく分からないくらいの差なのだと思いますが...。でもすごく演奏するの楽しくなったんですよね。話を元に戻すと、酒を飲まなくてもライブしたりできる状態に自分を持っていく環境が偶然整ったから今楽しく創作ができているんですよね。今までは体力と精神だけが資源で、それをどこまで擦り減らせるかのチキンレースでした。それで生み出せたものは想い出でしかなくて、音楽的には自分が聴きたいと思える音楽は今まで作ったり演奏したりできた事が無かったです。パンクの呪いだなと思います。社会や自分の境遇への怨みを悲鳴にする手段として音楽を演奏していました。今もリスナーからするとあまり変わってないかもしれませんが、僕的には今のユリシーズの音楽は超コミュニケーションって感じです。僕の伝えたい事って歌詞はあるけど、言葉ではなく音楽なんだなあと思いました。音楽が伝わる時はすごくはやい。僕が伝わる演奏をライブで聴いた時に、その演奏者になんと言えば良いのかいつもわかりません。良かったです!!って言うのはなんか違うというか、何が良かったのかと言われたらとにかく言葉よりも速く伝えたい事が伝わった事が良かったんです。それは美味しいとか気持ち良いみたいな快楽とは違う感覚だなと思います。気持ち良い事や美味しいとか、そう言う事はよかったです!!って自然に出るんですが、良かった演奏とは、気持ちよかったわけではなくて、言葉では表現できず、音楽でしか表現できない、喜怒哀楽のどれにも当てはまらないユニークな感覚が音速で伝わった感動なんですよね。だからよかったですでは感想を伝えられないんです。だから難しい。でも、演奏している側的に、今ちゃんとそれ(音楽)が表現出来ているという実感がある時がある。

松本君が小説とか、この手紙とかを書く時、読ませる時ってどんな気持ちや考えがあるんですか。それが一番気になる事です。

新しいゴースト

スマホの普及とか、仮想通貨など目を向けると未来を感じるものや出来事ってあるけれど、普段暮らしていて見ている建物や乗り物のデザイン、その内装、食器、寝具など昔から変わらない物ばかりに囲まれて暮らしていて、太古の人間の夢をみているんじゃないかと思ってとても不安になる事が増えた。なんで不安になるのかな。例えばこのコップなどは1万2000年前の人だってこれは新しい物だと思って使ってはいなかったと思う。いつから我々はコップを使うようになったのか思いを巡らすことはあれど。新しい感覚、新しい概念に触れたいし作りたいと思って生きてきたけれど、当然何かと比較しなければ新しいという感覚は無い。新しい古いという感覚は時間に似ているけれど生き方の哲学でもある。

 


「新しくないといけない/新しくてもいい。古くないといけない/古くてもいい」

 


たまに懐かしさを感じる事があるけれど、懐かしいってなんなんだろう。必ずしも古い物だけに感じる感覚では無い。僕は割と感覚も料理だと思ってるから、懐かしさは強烈な香りがするし、少しだけ使う事により効果的なスパイスだと考える。あとは距離がある物に対して感じるものだとも思う。いつも囲まれている物に対して懐かしさはあまり感じる事がないため。

最近は懐かしさを感じる事がなくなった。何を見ても古いなと感じる。

(でも最近観たserial experiments lainというアニメは古いアニメだけどめちゃくちゃ新しいと感じた。カイバというアニメにも新しさを感じた。ぼんやりとした新しさをではなく、明確な意図を持って未来に伝えないといけないメッセージがそのまま作品になっておりどちらも素晴らしかった。感服した。)

その原因はやっぱりサブスクでいろんな時代の音楽を消費しまくっているからなのかもしれないな。裸のラリーズ、落とせばただのノイズという名言ここに極まれり。でも周りの友人たちはP2Pラリーズを落としていた人が多くて、彼らはその後もラリーズを愛している若者たちだな。僕もそうだし。

 


ここ2年くらいは90年代のオルタナティブロック周辺を一つ一つのバンドの軌跡をなぞるように聴いているんだけど、消費されすぎて古くなったものと消費され尽くされないばかりか新しい概念を纏って新しくなったものとに別れるなと感じる。そうなった時に自分は明らかに後者に魅力を感じるし、もっとその新しさを解き明かしたいと思って何度も聴いたり映像を観たり、それらにまつわる書籍を読んだりする。

 


新しさの感覚に取り憑かれているんだなと思った。まだ感じたことのない感覚にアクセスしたい感情に。

だけどそれは人と共有する事が難しいし、音楽は共有するものだから伝える事を考えるとまた頭を抱えて寝込んでしまう。

 


昨日は大粒の泪にてグッドミュージック共有会のパーティがありGASOLINE・STANDでライブした。

NISSEKI blueをフィジカル化してくれたMangalitza Recordsの井上Uさんが今年死んだ。結局一度も会えなかったんだけど、minna kikeruで僕を見つけてくれてbandcampでメッセージをくれたところから始まったリリースプロジェクトだった。LINEや通話でたくさん応援してくれてて熱い人だった。今頑張れてるのは完全に彼のおかげ。

GASOLINE・STANDはコロナ禍に突入してバンド活動ができなくなり始めた宅録だった。その時にはギターの音も好きじゃなくて、若者でも無いけれどギターの音がある音楽を聴けない感じになっていた。弾くのも面白くなかったし。だからギターを使わずにやるプロジェクトとして始めた。だけど井上さんはギターを弾きながら活動した方が良いとアドバイスしてくれていた。yeuleみたいなイメージを抱いているのかなと漠然と思っていたんだけれど、そこからギターという楽器について考える時期が始まって、90年代のオルタナティブロックを検証する様に聴く様になった。ギターも買って弾き方やコード、音についてまた考える日々が始まった。バンドも再開して、メンバーも再編成して、レコーディングも始まった。振り返ると順調にやってて良かったねという気持ちになって来たけど、主観的には毎日死ぬ程のダルさと向き合ってギリギリ生存している感じなんですが。コロナ後遺症なのかな。

それで昨日はそれで初めてギターを弾きながらのガソスタをやったんだけど、色んな人にしっかりフィードバックを貰えてやって良かったなと思った。今はギター弾くのが一番楽しい。ギター弾くのが好きになったところから音楽を始めた事を思い出した。ただ練習して弾くだけだといつか飽きる事だと思うけど、何度もリイシューされ続けて形を変えずに生産され続ける死んだ木は幽霊よりも存在感のあるフィードバックを鳴らす事ができるという点において他の楽器を超えている。

 


昨日はウンラヌのギタリスト祥三君もギターインプロを演奏していたんだけど、めちゃくちゃ良かった。信じられない演奏だった。それこそVOXのキャビネットから出てくる音が幽霊の様な存在感を持っていた。僕は幽霊を見た事ないし、存在を感じた事無いけれど世の中には幽霊を見る人や、心霊コンテンツに溢れている。存在しないかもしれないのに物凄い存在感だなと思う。そんなに勿体つけていざ正体を現した時にきっと祥三君のギターのサウンドと比べたら果たしてどちらが凄いのか。そんな事を考えた。カート・コバーンエレキギターは死んだ木だと言っていたけれど、音は死んだ木から出てくるゴーストなのだと言いたかったのかなと思った。絶対そうだと思う。ゴーストは人をもっと怖がらせてほしい。戦争は病気の恐怖ではなくてゴーストの恐怖で絶叫したい。怖すぎる!!!って。エレキギターにもそう思う。

 


イベントの終盤BONGBROSのP.Eさんがこの曲をかけた。

 


https://music.apple.com/jp/album/%E5%A4%95%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%98%87%E3%82%8B-feat-%E6%9D%BE%E7%AB%B9%E8%B0%B7%E6%B8%85/1578279265?i=1578279832

 


感動しました。