#入管法改悪反対

この国の教育は
同調圧力に抵抗が無く、やがてそれを利用するようになる人。
同調圧力から逃げ続けている人。
この二層に分ける。
前者は頑張る事で報酬を得た経験があるから権力に前習えする。後者は差別への忌避感を知っている側だが、それに抵抗する活動さえも同調圧力だと見ている人々が多い。

 

陰謀論に想像力を奪われてしまったユーザーをよく目にするためTwitterユーザーは特に声を上げる活動に抵抗がある人が多いかもしれない。想像力にもファクトチェックにも限界があるからこそ、目覚めスイッチが入ってしまう人がいる。知って踊らされるより、知らずに踊らされている方が楽なんだ。

 

差別が人を殺していて、国がそれを推進しようとしている時点で戦争と同じ事が起きている。そんな事みんな分かっているけれど、自分で踊るんじゃ無くて、踊らされるエンタメ漬けにされた僕たちはまた踊らされようとしている。敵はいつでも僕らの心の中に居るよ。

 

デモに参加したり、この事について知人と話をするだけで良いと思う。でもパートナーにも相手にされないかも知れない(疲れてると思うし)。そんな時は無理せず話をしようとした自分の事を愛して欲しい。差別についての話は本当に足りて無いし、難しい。好きな人が差別的だと分かれば嫌いになるし、怖い。

 

未来の地球にどんな人達が暮らしているかを今まさに選ばれようとしていると思う。僕は生まれてから今までずっと人間にうんざりしてる。不満があれば弱者に怒れば良いと思ってる人達ばかりだと思うから。これは「うちはうち、他所は他所」っていう最悪にダサい思想が生み出した世界だ。

 

生きてても楽しい事なんてあんまり無いよ。でも、そのあんまりの内には人との出会いがあるよ。恋愛や利益を得るためのマッチでは無くて、目が合うだけで宇宙まで飛んでいけるようなやつ。僕の場合は直接じゃ無くて作品を通して時間空間を超えた出会いの場合が多いけど、それがあるから生きている。

 

音楽も映画もゲームもなんだって作品を作るのは人だから、AIだって人が作った作品を食って機能してるし、作品との出会いは人との出会いだと思う。作品を作ってない人はピンとこないかも知れないけれど、そういうもの作ってる人たちは最初の話の後者である事がほとんどだと思う。

 

列挙するまで間も無く、差別の対象にされるあらゆるIDの困り事は生命に関わる事でさえ自己責任とされる。自己責任という言葉を使ってる人は責任という言葉に意味がない事を知らないと思う。ただ意味もなく差別的に他者を責めてる自分を肯定するために使う言葉。

 

責任をとって辞めるとか、責任をとって死ぬとか本当に馬鹿だよ。個人が不利益を被る事で他者が助かる環境がおかしい事を指摘できない同調圧力の中で踊らされてるだけなのに。頑張れとか気合いとかと同じ、特権を持つ者が弱者に強いてきた汚くて意味を持たない言葉だと思う。

 

また同調圧力の中で生きる人達は本当に責任とか気合いとかの世界で生きてるのだとも思う。命の価値をかなり低く見積もるのには昆虫のように同種を殖やすという事しか考えてないからだろうな。そういうのはもう終わりにしよう。命の価値をもっともっと高めて1番上に持っていきたい。何よりも大切なもの。

 

そのために声を上げる。誰かに責任を押し付けるためじゃ無い。命の価値を何よりも高いものにする為に。

#入管法改悪反対

 

 

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を観てきた。

みなみ会館でぬいしゃべ観てきた。この映画はどんな人にも全員に観てほしいから薦め続けるけれど、上映中吐き気が辛くてで胸が棒で押されているかの様に苦しかった。自分の過去を(そのまま)観ている様だったから。僕は20代の頃ぬいサーではなくTwitterで自問自答していたけどそれも苦しくて、話を聞いてもらうためにもっといい方法も思い付かないでいると頭の中に姿無き存在が生まれて話を聞いてくれたり、話しかけてくれる様になった。つまり全然大丈夫じゃなくなったんだ。いつの間にかそれは居なくなったけど、その時の安心感に縋り付くために手段は選べないし感じを思い出した。社会のあらゆるしんどい箇所を変えるために急な解決策なんて無いから痛み止めとしてのぬいしゃべと対話の練習としてのぬいしゃべを描いていた部分には真摯な伝えたさが伝わってきたし、全編通して現実でしか無い。人それぞれ現実は違うけれど、僕の現実はまさにこれで、今鴨川で鳥達に囲まれながらこれを書いている。物語で描かれる救われようの無い苦しみ(無自覚な加害性と加害性の自覚、社会に演じることを強いられるジェンダー)をジョンのサン、わがつまさんの音楽が優しく包み込む。素晴らしい録音だった。

各所に散りばめられたぬい視点は眼鏡を外した様にぼんやりしていて音も耳栓をしている様だった。僕たちはそういうかわいい鈍さを何かに心底求めている。彼らにはぬいがそういう存在であって欲しかったし、白城にとっては七森がそういう存在であって欲しかった。でも本当はみんな敏感である事を恐れている。この社会においては鈍感さこそが強さとされているからだ。この映画を観た人たちは気づく事ができると思う。実はみんな弱いままでいいって事。弱いから大丈夫じゃなくなるんじゃ無くて、大丈夫じゃ無くなる環境に鈍感になってるだけだって事。僕にとってこの映画はショッキングなセラピーだった。この映画は革命を起こす事ができる。金子由里奈監督にとても感謝してる。あと、この作品に一瞬映り込む事ができてめちゃくちゃ光栄です。また観に行く。

 

 

https://nuishabe-movie.com/

 

 

https://youtu.be/fBorXbVqwOU

feelings, NONAME 20230325リリースします。

https://twitter.com/coffee_ippku/status/1636286690980687872?s=46&t=4wLEiJvehN77j6X9df6Hwg

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KASHIKOI ULYSSES
"feelings, NONAME"
20230325 release.

REC at studio INO by Satoshi Yoshioka.
Mixing : Keisuke Ezoe @EzoeEndlessSumm
Mastering : Ippei Suda @IppeiSuda
Artwork : aeonfade

 

その前にKASHIKOI ULYSSESは今何をしてるのか書いておきます。

毎週、それぞれにほとんど無い余暇を寄せ集めて、出町柳のスタジオで寄り合わす。

バンドのdiscordサーバー上で今聴いている音楽をシェアしたり、曲のアレンジを練ったりしてる。

今年こそレコードを作ることを目標に現在は京都近辺在住の5人を中心に活動しています。

 


3/25に各種サブスクでリリースされる「feelings, NONAME」というシングルはコロナ禍に入ってバンド活動を休止せざるを得なくなり、osamuosanaiの宅録プロジェクトととして始めたGASOLINE・STANDで作った曲です。コロナ禍以降の再スタートはこの曲のセルフカバーから始まります。どう思いますか?

 


この曲の歌詞は「誰も笑わないで欲しい」という僕からみんなへの要望が主題となっており、Fmaj7 Cmaj7 Fmaj7 G2弦3フレット Fmaj7(2弦解放) C Dm C のループの上でリフレインされています。

ここで言う"笑い"とは、嘲笑や冷笑の事です。嫌じゃ無いですか? 僕はかなりそういう"笑い"がしんど過ぎて、ギリギリここまで生き延びてきたけれどずっと嫌だった。嫌なことを嫌だと言うことが出来ないように調教されてしまうと、主観的に異端だと思う対象を冷笑するようになるんだと思います。嫌なことを嫌だと言うのには人によっては訓練が必要だと思うし、NOと意思表示することによって急に危険な状況になってしまう位置に居る人がほとんどだとも思います。でも、僕たちが今ある程度生存できたのは、赤ちゃんの時にちゃんと意思表示出来ていたから。生まれたばかりの人間は嫌だと言う意思表示しか出来ない生き物。それさえ出来ないと生存出来る可能性はかなり低くなる。前ならえは気持ち悪いから死ぬより嫌だ。自分のことを愛する事が大切なのは当然として、自分にとって死守したいものはなんなのか、名前や見た目など自分にまつわるほとんど全てが削ぎ落とされた時に、自分が自分であるために譲れない部分とはなんなのか、それが名付ける事が出来ない感情なんだと思う。

嫌と言えないとストレスで怒りが生じる。その怒りは自分や他者に向けられるが、原因が解決しないかぎり生じ続ける。そのうち繊細なシナプスは焼き切れてしまう。怒りは生じさせられるものではなく、提示するものであるべきだ。親や教師に怒られ過ぎた結果、怒り無きコミュニケーションには心動かされなくなってしまっていた(激辛じゃ無いと食べた気がしない感じに似ている)。言葉が使えるならコミュニケーションに怒りは必要無い。怒りは助けを求める悲鳴であるとともに怒りは言葉が届かない大きなものに対して提示すべき武器である。怒る前に嫌なことには嫌と言って断り、聞く耳を持たないものに対して冷静に怒りを提示する人が増えたら余計な怒りは減ると思う。(怒りは嫌いだ。でももうずっとこの国の政府やレイシストたち、家父長制にはうんざりだ。今すぐ消えて欲しい。)

 


コロナ禍で感じた事はたくさんあった。政府の対応の絶望と未来への不安、貧困の苦しみ、病と薬との付き合い方の難しさ、腐った特権を死守するために誤った情報を流され続けるタイムラインへの悲しみ。子供の時ショッピングモールで聴き続けたあの曲が夕食の事だけを考えていたら良かった懐かしい時間に連れ戻す。だけど僕たちは脳みそにプログラムされたクリシェをハッキングする。腕力で組み替えて、違和感がある方が良い。違和感が意図になるまで、もう一回そこからやってみよう。もう一回、もう一回。それでも毎回違うからこの曲はバンドでやる必要があった。

 

 

 

 


このトラックの聴いて欲しいこだわりポイントはここです。「イントロは鴨川デルタの先端でカセットテープで録音したサックスの音をラジカセ搭載のスピーカーから出して再度コンデンサマイクで録音したもの。そこからゆきさんのギターフィードバックを四つ重ねて入れた。「そのままで」の前部分、デルタの先端で録音した水の音、小金井のパッカー車の音、鴨川デルタの先端で録音したサックスのテープ音源後半をライン出力し、七度ピッチシフトして、オートチューンで黒鍵だけなぞるようにしたものを挟み、その後のサックスも雅楽の笙をイメージしたピッチシフトをミックスしたものをいれました。」

 

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PAVEMENT観た!!!!なんばhatchで!!!

コロナ禍に入ってバンド活動が上手くいかなくて、ギターの弾き方を忘れてしまった頃に聴き始めたpavementにめちゃくちゃ衝撃を受けて、毎日聴くようになった。来日する事が決まり、すぐにチケット取った。

でもその頃(今日)に僕やpavementのみんなが生きてる保証も無かったし、本当にライヴが観れるかどうかなんて分からなかったんだけど、とにかく生き延びるための希望になった。
チケットを買った直後に香川のipppenさんから連絡があり、「pavementを一緒に観よう、チケットも買っておきます」

その連絡にとてもびっくりして、とりあえず僕はもうチケット取った事を伝えたら彼もびっくりしていた。
今日久々に再会できてすごく嬉しかった。写真とか撮れば良かった。
そしてなんと初期ロットの90年turbo RATを譲ってくれた!これ毎日メルカリみて探してたやつです!
しかも先日rat壊れたばかり!

なんで僕の欲しいものを知ってるんだろうか。明日のスタジオで早速鳴らしてみる。

turbo RATは90年代にpavementsonic youthがプリアンプとして使っていた名機です。初期ロットめちゃくちゃ欲しかったんです。

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pavementの音楽に完全に心酔する前は、人の心や自分の心、あるいは社会や歴史を動かすことに全身全霊を注ぐエネルギッシュな表現にジーンときてたけど、pavementはそれらと比べて真逆のように感じる。でも彼らが音楽と向き合った先に我々が居るんだ。我々が社会であり歴史だと知る。彼らの目を通して。彼らは音楽を通してあらゆる視点を提供してくれる。

 

なんばに向かう地下鉄たくさん人が乗ってるけど、みんな普通の顔してドキドキしながらpavement聴いてるんだと思ったら面白い。変わり者過ぎるだろ。

 

もし音楽が聴けないくらい疲れてしまって、音楽嫌いになりそうな人が居たら、PAVEMENTをそっとおすすめしてあげよう。音楽オタクの最後の砦。リスナーが主役。そばに居てくれるだけのケアのロック。
今夜の演奏は本当に素晴らしかったです。ありがとう。

 

いつも音だけ聴いてるとソングライティングのことや、ギターの音、歌い方について考えさせられる事が多い。曲が好きだから。
でもpavementを直接見て思ったのは、音は楽器から出てくるけれど、音楽は人から鳴らされるものなんだという事。ソングライターやシンガーだけではバンドの魔法は生まれない。

 

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非サイケデリック

サイケデリックという形容詞が生まれてからギターアンプ、ディレイ、ファズなどロックにまつわるものがほとんどサイケデリックな音である事に人類は気づいてしまった。それからというものあらゆる音楽レビューにサイケデリックという言葉が乱用されてきた。

ロックの生み出した退廃的、陶酔的、上昇的、下降的、回転的、彩色的、モノクロ的な感覚全てがサイケデリックのに一言で終わらせられる事に凄くしんどさを感じる。みんなの手のひらに触れて動く絵がある現在、音楽におけるサイケは全くありがたいものではない。

幾何学模様のラストライヴ(いまだに信じられないほど素晴らしい演奏だった。)で思ったけれど、彼らの音楽はアートワークの雰囲気やファッション含めてサイケデリックな雰囲気が強いけれど、肝心な音楽はただのプログレクラウドロックサンプラーではなくしっかりとオルタナティブ志向な作りになっている。つまりファクトチェックされた信頼性のあるソースを用いて、常に少し新しい音楽のリフを生み出し続けてきたという事。

音像の主張や演奏の技能さえも、音楽の種と言える小さいリフの発想次第で意味が変わる。

セッションの中、古いレコードの中、何気ない鼻歌、midiキーボードを適当に触ってクオンタイズしたフレーズ、どこから拾い上げても良いんだけど、何の原石を拾い上げるのかが重要という事。

例えば金やダイヤモンドなど価値がすでに確立している原石を拾ってもいくら磨いてもその重さ分の価値を超えることはできない。名付けられていなそうな石を拾って磨くというのがオルタナティブロックを作曲するという行為であり、その行為が自体非サイケデリックだと思う。常に拾った石を色んな物と比べ続けながら磨いていかないとすぐに耳触りの良いだけの保守的なリフとなってしまったり、信頼性のあるソースが少な過ぎる陰謀論のようなリフになってしまうからだ。陶酔している暇が無い。

 

僕は去年から非サイケをテーマに音楽をやってるんだけど、そうすると音色の必然性を厳しく確かめるようになった。音域と、残響音を含めた音の長さはコントロールが難しい部分だからこそ必然性に大きく関わってくる要素。何のためにここで低音が強いのか、弱いのか、何故ここでリバーブが必要なのか、必要では無いのかなど自問自答したり、バンドメンバーに聞いたりして今のユリシーズの音楽ができてる。

 

そもそも、サイケデリック・ロックに限らずあらゆる音楽ジャンルは同じドラッグ(アシッドから恋愛、戦争まで)をテイクして、精神状態をシェアした状態を用いて非言語下で音楽的イディオムやクリシェ、グルーヴを味わう事で確立されている催眠だと思う。そういう意味では音楽を聴くということは無意識下で必然性と向き合せられるという事。

歪んだゴーストが理解について語りかけてくる。ここではこれが当然だろうという前提を鵜呑みにするのではなく、ちゃんとゴーストと対話して対案を提示し続けるという事が作曲において1番重要で醍醐味だと思う。

 

ライブ機会あったら観にきて欲しい。音楽も人も変わり続けていくから、live

 

神大丈夫?

貧困により飢餓になる。

尊厳がなくなる。愛に飢える。

そんな人達にとって神は愛の光。

食べ物が食べられなくても神の愛があれば救いがある。

神は自分を愛してくれるから、違う神を信じる者を否定して戦争が起きる。愛を求めるが故に盲目的になってしまう。

食べ物や愛に飢えなくなった人は神を必要としなくなる。でもそういう富裕層が貧困を生み出しているので彼らがマジョリティになることはない。貧困が神を生み出し、神が戦争を生み出している。神が飢える人に手を差し伸べる。

今は誰でも神になれる時代。愛の言葉や信じたい未来を予言してもらいたい人があまりにも多いから。

僕は僕の作った音楽をいろんな人に聴いてもらいたいと思っているんだけれど、神も同じ気持ち?

神は自分の言葉を聞いてもらいたいのかな。

神の言葉はバズり続けてる。

自分は他者だった。

自分は他者だった。そんな事、気づいていたけれど、理解したのは初めてだった。

勝浦さんが以前、コンタクトをつけたままにしていたからか眼球の表面に張り付いてしまって取れなくなってしまった事があった。無理やり取ると目の表面も剥がれてしまって、痛くなったって。

ぼく自身も取れなくなったコンタクトのようにくっついてしまっていた。何がくっついていたのかと言うと、ぼくという人間とぼく自身。

子供の時から窮屈だなーと思っていた。身体が弱かったし、貧乏で、両親は怖くて、自分の見た目や性格が嫌いだった。体が弱かった事も、貧乏だったことも、両親が怖かったことも、それによって自分のことが嫌いな事も、自分で選び取ったものでは無いし、今生きている事も偶然。そのうち死ぬことは必然。生きている事が偶然で、生きている理由も分からないのに、なんかとても恐ろしさを持った死はすぐに目の前に立っていて、人生は本当にクソゲーだと思う。でも人間が作った面白い作品とかが割と残っていて、悪く無い部分もあるけれど、それでも辛い事ばかり目に入ってしまう。ずっと胃がチクチクと痛いんだ。

そんな辛さと共に生きている事も全部偶然。だからぼくは必然性が欲しい。なぜここに存在しているのか、納得できる理由をいつも求めている。音楽もセオリーより必然性をとても大事にしている。それはそのメロディの存在を大切にする概念だと感じているから。なんでもありだと、把握しきれない。デザイン的には把握できる範囲の情報量を綺麗に並べたい。

 

最近髪を青く染めたら緑になった。メガネが似合わなくなったからコンタクトを買いに行った。まだ取り外しに苦戦している。

 

日曜日、3曲ミックスが終わった。江添さんのホームスタジオで集中して作業をした。その後江添さんと、ゆきさんと勝浦さんと酒を飲んだ。完成した感じがあり、かなり嬉しかったし、ビールが美味かった。勝浦さんと西院から歩いて出町柳に帰ってきた。出町柳で勝浦さんと別れて、家に帰っている時に急に自分に対して感謝とリスペクトを初めて感じた。不思議な体験だった。自分は自分の事を欺けないというシステムを初めて知覚した。

他者から何か言われた時に(特に感謝やリスペクトを表現するポジティブな言葉)それを信じるということは「欺かれるリスクを背負って信用している」ということ。だから気持ちを伝えるってほんとに難しいと思う。難しいよ...。ぼくは周りにいる友人を尊敬していて、貴重な人生の一部を使ってぼくの相手をしてくれることに感謝している。彼らにありがとうと言うことはあれど、その言葉にこの気持ちを詰め込んで伝えることは不可能だし、する必要も無いと思ってる。でもそういう友人に対して感じている感謝と尊敬を自分自身に初めて感じた。その気持ちは言葉を介さず心から心へ伝わるものだから(内部で起きていることなので)生まれて初めて感謝されて気持ち良すぎて大号泣してずっと道を譲る大鉄(浦安鉄筋家族)の気持ちが分かったようだった。

(しんどくて面倒な事が沢山ある人生だったのに、今日良い録音が3曲できて、良くここまで付き合ってくれた。ありがとー...。)

そう自分に言ったし、言われた。

自分はどちら側でもある。でも生まれた時から今の自分じゃ無い。今の自分が存在するのも偶然なんだけど、今は自分の意志で音楽したり、仕事したりして生きてる。意識はグラデーションだからどこからそれ以前、以降と線引きする事はできない。でも明らかに肉体は老いていてついてきてくれている。古いギターを弾いたり、ボロい車を運転してるような気持ちがある。

来週初めて胃カメラを飲む。ギターと一緒で身体もオーバーホールしなきゃと思ったんだ。

まじで生まれてからずっと色々あって毎日大変なんだけど、よくここまでギリギリ辿り着いたと思うよ。時間が無いから慎重さを保ちつつギアをあげていこう。