NIRVANAを聞くと思い出すことがあった。

かつて歌とディストーションは別の音であったこと。今ではオートチューンでコンプレッションされた歌。

機械になろうとしてボコーダーを使った時代に戻って行った。機械にならないと乗れないビートの上でサイボーグがサーフィンしてるんだ。


音楽を料理に例えるとサウンドが味覚、感情が嗅覚だ。あとヴィジュアルによって無限の作品ができる。

今は心地よいビート、上がれるバイブス、強烈な悲しみと切実な怒りが求められている。

社会に求められるものを作りたいとは思わない。でも意図して差別化したものを作りたい欲求があるわけでもない。自分が楽しいと思って作った前作はいい音楽ができたと思ったけれど、センセーショナルではなかったとも思う。

せっかく作るのならばカート・コバーンに学びたい。Nirvanaが一番好きなロックバンドだと思った。

 


ロックバンドは音が大きいからスタジオがないと練習や作曲ができない。楽器もアンプもでかい。

すごくコスパが悪いプロダクトのフォーマットだと思う。それはまるで大学のようだとも思う。どんな音楽だってフェンダーやローランドなど著名な楽器メーカーが担保してくれるようだ。我々の商品をならせばそれは音楽なのだと。顧客(プレーヤー)へのリスペクトを感じる。その安心感の中で自由に研究をする。しかしそれが陳腐に感じるため音楽が好きな人たちはジレンマの中でギターを破壊するしかなくなるんだと思う。音が出なくなるまで楽器を破壊することが難しい。音を止めるために電源を落とすことは容易いのに。

 


一方デジタル機材はすぐに破壊できるが音量が調節できるし、創作活動のためにスタジオなど必要ない。PCやiPhoneさえあればそれでいい。

ライブだって簡単だ。あらかじめ用意された曲を演奏するのと、あらかじめ録音されたファイルを再生するのと、何が違うのか。おそらくプレーヤーがどういう動きをするのかが違うだけであり、その時何がどう鳴るのかはプレーヤーにも再生者にももちろんオーディエンスにもわからない点は同じだ。楽器を生演奏することで伝わることが増えるのだろうか。コミュニケーションは増えると思う。ただ音源を再生するよりも情報が多いため。ボーカリストはあなたに向かって歌いかけているかもしれないが、プレーヤーは少なくともオーディエンスの以前に楽器と向き合っている。楽器と頑張って向き合っている人間を観察する楽しみがバンドのライブにはあるだろう。一体人間は音楽を通して何を求めているのだろうか。きっとだれか人間のことを好きになりたいんだと思う。アイドルのファンはアイドル同士のコミュニケーションにあがるようにプレーヤーが楽器との関係性を音やライブで表現することもまた音楽の楽しみの一つなのだろう。軽音部はコピバンをやるけれど、今はどうなっているんだろう。ASAP ROCKEYやTRAVIS SCOTTのコピバン(カラオケ?)などやったりするだろうか?楽器は演奏する楽しみがあるからコピバンでも楽しいと思うけれど、ビートはコピーするものではなく作る楽しみしかない。メンバーが楽器やバンド自体にも向き合っているバンドというフォーマットよりもその表現はまっすぐオーディエンスに向かうしかない。ぼくは音楽で今一体何をすればいいのかわからないままでいる。ずっとこういうことを考え続けているんだけど...

怒り

今怒らなくていつ怒るんだ。なぜみんな声を上げてくれないんだといつも思ってきた。

オリンピックもフジロックも普通に楽しんでいる人たちがいることが、ぼくにはどうしても耐え難い。

ぼくを突き動かしている正義感のような潔癖症のような、この感情は一体なんなんだろう。ずっとこれに支配されてきた。

 

まだまだコロナ禍真っ只中です

8月も終わりそう。あっという間だね毎日。今コーヒーの焙煎が終わって袋に入れるから冷めるのを待ってる最後の一服中。今日も色々聴いたよ音楽。スティーブレイシーやMGMT、ずっと好きだな。

 

今月僕は無事転職できました。それもほんとに素晴らしい職場!よかったね。今もここで働いてるかな?コーヒーや音楽は売れるようになったかな?

明日区役所に行って健康保険証をゲットしてくるよ。

 

Twitterに張り付くのをしばらくやめることにする。何度目だろう。Twitterデモとか凄く効果的なアクションになってきてるんだけど、精神的にヤバくなってきた。普通に仕方ないよね。危機感を煽る事しかできないし、効果もそんなに感じない。オリンピックは終わって当然のようにデルタ株を蔓延させた。高校野球はやってるし、フジロックは有観客でやるらしい。普通についていけないよ。

 

またタバコ増税するってさ。アメスピついに600円になる。馬鹿みたいだけど、控えなきゃな。金はまじで足りないから。

 

ずっと職場と家の往復で、外に出なくなった。セルフロックダウン。来週ワクチン1回目打つんだけど、感染しないように気をつける事しかできないよ。それで精一杯。

毎日ひどいニュースばかり。ウィシュマさんの件で開示請求して入管は15000枚の黒塗り文書を送ってきた。この怒りどうすればいいのか。

Twitterで怒る事にまた挫折した。ただそれだけで楽にはならない。これが現実なんだから。少しずつでもこの国や世界を変えなくてはいけないね。

 

採用された

3度の面接の末に就職できた。30目前にしてはじめての就職。

コロナ禍での就活は本当に大変だった。

失業手当を少しずつ使いながら家で寝てばかりの生活も落ちていたけどもうできないと思うと少し寂しいような。

どんな生活が待っているか全然わからないけれど、経済的に余裕ができた試しが無いので、それは安心する。病院にも行ける(コロナ禍なので行けないけど)し、新幹線にも乗れるかもしれない(コロナ禍なのでどこへも行かないけれど)。

でも、どの会社よりもいい会社なんじゃないかという気持ちだけ持って来週月曜日からいきなり出勤だ。緊張するわー

time

時間が少なくなっていく。何もしないということは死に向かって逃げているということなのかな。向き合いたくなさってあるよね。後悔したくないだなんて誰しもが思っているとは思うんだけど、コツコツ何かをやり続けて成功するっていうのは全く違うんだっていう気持ちもある。それはいつの間にか溜まった金を一瞬で何かに変えてしまう買い物の感覚に毒されているということなんだろうかとふと思ったりするよね。僕はそんなに欲しいものないけどこの世のすべては買い物のエクスタシーで回っているように感じる。僕には一生懸命作ったものを売って、手放す感覚を続ける精神力は無いけど。作ることと売ることと、買うことに生じるエネルギーは全然違うんだよね。寂しいんだよね。孤独ではないことが。たくさんの人が癒えることのない寂しさに怯えていることとか、それを僕があるいは誰かがどうにかできない事実とか。何かに向き合うことでしか生まれないエネルギーは存在する。シンプルな作業、生み出す作業、飲み込む作業、練習のような作業など。そういうことで結晶化した時間が

消費される一瞬のために真剣な人は多いよね。

美しいとは思うけれど肯定はできないのかも。

音楽のことを考えると、音楽を手放しに肯定できないように。

ヤバいほど喜びたいなと思ったときに、ギャンブルは輝いて見えるかもしれないよね。そのあとで空しくなっても、ギャンブル以外だって栄光は一瞬のものでしかないから何でもそのあと空しくなるものだ。

人と話してうれしくなることでさえ疑問を感じるようになってきた。

生きているうちに愛している人々へ愛を届けたいなと思うけど、話すことでも、金や何かを渡すことでも、少なからず何かを伝えられはするのかもしれないけれど、満足はできないし、結局後から空しくなるよね。死んでも後から空しくなるのかも。

鳥は美しい。水は光を波にして時間の外へ連れて行ってくれるから優しい。

残酷な真実を伝えてくれる存在は尊い

生きているうちにできることって何だろう。したいことなんてないのかも。

コロナ禍が浮き彫りにした現実は僕を目覚めさせたのか、盲目にさせたのかわからない。言葉にすればそのどちらの目も存在するんだろうけれど、そんなに重要ではなくて。何かに夢中になっているときの快感に正直で居たくない。そのあとの空しさが怖いから。死んじゃダメだって強く思ってるけど、それは死んではいけない理由が無いからだ。みんなが何かに夢中になっている世界はとても静かで独りぼっちになれる宇宙なのかもしれないけど、協力しなきゃ面白くないことだらけなので対話していかなきゃとも思う。ずっとずっとこんな仕方がないことを考えすぎているのにも飽きた。