20211212urbanguild

ライブを観に行った。

SUZMENBA、数えきれない、ムーズムズ。

DJは森川さん、井上さん、仙石さん。

THEアバンギルドって感じのパーティで、2回コロナでキャンセルになったこともありみんなが待ち望んでやってきた感があった!テーブルは出ていたけど満員だった。久しぶりにすげー踊った。たくさん涙が出る瞬間があった。生きていて良かったと心底思った。僕もライブしたいなと思った。

 

自粛期間を経て、いつの間にか人に会うことがとても苦手になったなと感じている。でもそれなりに生活はできるようになってきていて、鬱との付き合いも慣れてきた。コーヒー豆もたくさん焼いている。

 

だけど、パーティが繋いできたコミュニティって本当にかけがえのないものだと思う。

僕らは病気になった時どうすればいいんだろう。コロナなら病院に行く。でも鬱なら?

仕事や学校など鬱の原因が環境にあることがわかっているなら、その環境を変えるために必要な精神的な松葉杖を病院に行って処方してもらう事が出来るかもしれない。

でも薬を飲んでも社会的な環境は自分の力だけでは変えることはなかなかできない事ばかりだし、そもそも薬は特効薬などないから付き合い方も難しく、通院でさえ慣れていないと難しいだろう。服薬自体にも大きなリスクがある。病気になる前の段階で、小さな問題を解決できていけば元気でいられるのにね。

 

そういった生きるための知恵をどこで交換できるのか。悩みを相談する相手は誰なのか。

SNSにはたくさん知人がいる。会わなくても彼らが生きているような気がして、会う必要がなくなってくるのかもしれない。でもほんとはそんな事ないはず。会いたいってどういう気持ちなんだろう。

会うって事は誰かを身近に感じたいという事だ。だけど行為としては自分を相手に身近に感じさせてしまう事でもある。これがすごくプレッシャーに感じて嫌だ。

誰かに会いたければ連絡をすればいいだけなんだけど、会って自分の事を好きになってもらわないといけない。好きじゃない人と一緒にいるのは本当に苦痛だから。当然だけど色んな人に好かれるような人には誰もなれない。面白い事を言ったりすることもできない。目の前にいる人を自分という存在を用いて楽しませる事ができない。そう悩んでいる人は大勢いるんじゃないかなと思う。まあぼくはそうなんだけど。だから目的なく人に連絡して会うということは難しい。

 

でもパーティはそれを解決する。

 

パーティの根本はみんなを呼ぶ事だ。みんなが集まればコミュニケーションが発生する。会話だけじゃ追いつかない存在を用いた原始的なコミュニケーションが。好きな人たちを身近に感じる事ができるし、同時に安心して他者にもなれる。そういうのが良いパーティだと思う。企画者目線だと様々な状況のオーディエンスに配慮したセッティングは大変なんだけど。

 

これが年一回の健康診断よりもぼくらの生活を支えてくれるように思った。そろそろ次のコロナが猛威をふるい、再び僕らは分断されるのかもしれない。2月にライブの予定をいれたけれど、キャンセルになるかもしれないと思っている。だけどこの日のパーティの記憶はきっと死ぬまで消えない。それくらいのインパクトがあったから。脳内であの日は続いているし、頭の中で遊んでるよ。

 

https://youtu.be/brBkltukTHY

 

 

 

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昨日はふじちゃんとななちゃんの家を訪ねて、物資と料理を届けた。そのあと一人も入れない満員過ぎるやきとり一番に振られたあとゴールデンモジャホールにいったね。ほんとに幸せな時間だった。そんな時にサザンの後に佐野千明さんのやさしい魔法が流れて、とても好きな歌なんだけど、胸が押しつぶされるくらいのキラーチューンだから最近はあまり聴かないようにしてたけど、大事なこと思い出した。大事なこと思い出すような歌が必要だということを。

 

朝はサザンの1stを聴きながらギターの練習してた。めちゃいいけど酷いアルバムだった!最高とは言えない。でもめちゃくちゃ気持ち良くギターが弾けるんだ!!!!!!!

ギター

NIRVANAをここ数ヶ月毎日聴いていて、魂がとても癒されている。彼らからはいろんなことを学んだけれど、ギターリフからでさえいろんな世界を作ることができるということが一番大きな学びかもしれない。

あと、やっぱりショートスケールが最高だということ。ダンエレのピックアップ変えられたらいいんだけど、ザグリ入れるとバラバラになるみたいだからムスタング買おう。

でかい音出したい。みんなで

パンクとは

金を稼ぐことを推奨しない金持ちと、金を稼いでドブに捨てることを推奨している金持ちたちがやってるロックやヒップホップを聴いてきて分かった事。グランジティーンズの無気力さを肯定し、道標が存在しないことを表現してる。素直な貧者は不完全な複製を続けて消費の速さに耐え得る無価値を生産する。

 

https://music.apple.com/jp/playlist/they-tell-me-not-to-make-money-or-to-make-money-and/pl.u-6mo4PYyIlXPzoG

よんじゅ君のサヨ族のアルバム聞かせてもらってテキスト書きました。

よんじゅ君のサヨ族のアルバム聞かせてもらってテキスト書きました。

https://tallgrassrecords.jimdofree.com/news/

 

 

childhood in the cloudへのテキスト

生きてるだけで苦しくない人っているんだろうか。今の体調が苦しいから苦しくない状態を想像できる。苦しくない状態はさぞかし苦しくないだろう。肉体を失った後のことは想像することを禁じられているようだ。想像するほど苦しむことになるから。

ぼくは使ったことないんだけどアクティブノイズキャンセリングという機能が今のヘッドフォンには搭載されており、外界のノイズの逆の波形のノイズを生み出し、騒音を打ち消す機能なのだけど、演奏を録音するという行為はまさにこう言ったことなのだと思う。

外側には打ち消したいノイズが満ち満ちている。それを打ち消すために他者に向けてノイズを発する。自分が社会的な存在であると信じたくなった時、理想とのギャップは摩擦音を発生させる。これは発達過程における初めて内側から発せられるノイズだろう。ぼくらは外側と内側の両側から発せられるノイズに挟まれている。全てに対してなんのために存在しているのか問い続ける時だけ神を認識する。神の暴力が一番うるさい。

ぼくは神にこう思う。「ムカつく」

戦争だって、幻聴だって、神のせいにすることができる。生きているだけで二酸化炭素を吐き続けてしまうように、工夫し続けなければ神を産み続けてしまうのが人間だ。

"Childhood In the Cloud" にはさまざまな楽器の音が収録されていて、音を聞くだけだとどんな形の楽器か形を想像することができない。全てがプラグインで作られたビートミュージックでさえ、808や404などの機体が目に浮かぶのに。何から音が発せられているか分かると安心する。食品の原材料名がわかると安心するように。このアルバムが昆虫の発生させた音を加工して構成されていると知った時、ハッとした。ぼくには黒い馬が数頭広い牧場をかけている風景が見えていたことを情報との差異をきっかけとして認識したからだった。昆虫くらいドーパミンが出たら起き上がる苦しみが和らぐだろうなと思った。今日は区役所に行って国民健康保険料の減額の交渉に行ってくる。いつまで生きられるだろうか。

 

長内納

NIRVANAを聞くと思い出すことがあった。

かつて歌とディストーションは別の音であったこと。今ではオートチューンでコンプレッションされた歌。

機械になろうとしてボコーダーを使った時代に戻って行った。機械にならないと乗れないビートの上でサイボーグがサーフィンしてるんだ。


音楽を料理に例えるとサウンドが味覚、感情が嗅覚だ。あとヴィジュアルによって無限の作品ができる。

今は心地よいビート、上がれるバイブス、強烈な悲しみと切実な怒りが求められている。

社会に求められるものを作りたいとは思わない。でも意図して差別化したものを作りたい欲求があるわけでもない。自分が楽しいと思って作った前作はいい音楽ができたと思ったけれど、センセーショナルではなかったとも思う。

せっかく作るのならばカート・コバーンに学びたい。Nirvanaが一番好きなロックバンドだと思った。

 


ロックバンドは音が大きいからスタジオがないと練習や作曲ができない。楽器もアンプもでかい。

すごくコスパが悪いプロダクトのフォーマットだと思う。それはまるで大学のようだとも思う。どんな音楽だってフェンダーやローランドなど著名な楽器メーカーが担保してくれるようだ。我々の商品をならせばそれは音楽なのだと。顧客(プレーヤー)へのリスペクトを感じる。その安心感の中で自由に研究をする。しかしそれが陳腐に感じるため音楽が好きな人たちはジレンマの中でギターを破壊するしかなくなるんだと思う。音が出なくなるまで楽器を破壊することが難しい。音を止めるために電源を落とすことは容易いのに。

 


一方デジタル機材はすぐに破壊できるが音量が調節できるし、創作活動のためにスタジオなど必要ない。PCやiPhoneさえあればそれでいい。

ライブだって簡単だ。あらかじめ用意された曲を演奏するのと、あらかじめ録音されたファイルを再生するのと、何が違うのか。おそらくプレーヤーがどういう動きをするのかが違うだけであり、その時何がどう鳴るのかはプレーヤーにも再生者にももちろんオーディエンスにもわからない点は同じだ。楽器を生演奏することで伝わることが増えるのだろうか。コミュニケーションは増えると思う。ただ音源を再生するよりも情報が多いため。ボーカリストはあなたに向かって歌いかけているかもしれないが、プレーヤーは少なくともオーディエンスの以前に楽器と向き合っている。楽器と頑張って向き合っている人間を観察する楽しみがバンドのライブにはあるだろう。一体人間は音楽を通して何を求めているのだろうか。きっとだれか人間のことを好きになりたいんだと思う。アイドルのファンはアイドル同士のコミュニケーションにあがるようにプレーヤーが楽器との関係性を音やライブで表現することもまた音楽の楽しみの一つなのだろう。軽音部はコピバンをやるけれど、今はどうなっているんだろう。ASAP ROCKEYやTRAVIS SCOTTのコピバン(カラオケ?)などやったりするだろうか?楽器は演奏する楽しみがあるからコピバンでも楽しいと思うけれど、ビートはコピーするものではなく作る楽しみしかない。メンバーが楽器やバンド自体にも向き合っているバンドというフォーマットよりもその表現はまっすぐオーディエンスに向かうしかない。ぼくは音楽で今一体何をすればいいのかわからないままでいる。ずっとこういうことを考え続けているんだけど...