kさんへの返事

いい規模だと思います。
kさんはディベートが得意そうだなと思います。
楽家だからか対案を出すのが速いと思うし。その速さ、僕も身に着けたいと思います。
相対的なものだから賢さで語ることはできないけれど、あいまいな概念のままで表現するならばこの世界にはいつも賢さが足りないですよね。
だからこそ人類は受験で戦争している訳ですが...。
僕は賢さにずっとコンプレックスがあるのかもしれないと最近気づきました。算数の能力だけでは生きることができないようにあらゆる能力を組み合わせて人間や人類は動いていますよね。いろんな能力を組み合わせたり分離させたりすることが人間にできることの一番根本にあるのかなと思います。今では人類もコンピュータという非生命(かっこいい!)の相棒とともに成長し続けているわけですが、彼が代わりにやってくれることの一つにインターネットがありますこれを使えば無料かつ一瞬で情報を無限に参照することができますそのおかげで節約できる時間は人間にとっての寿命何回分か測れないほどです。しかし当然ながらすべての情報には意味以外にルーツがあります。情報の意味だけ抜き取っても表面的な音楽にしかならず、背景があるからこそ出てくる深みというものを当然のようにみんながありがたがった時代が終わったんだと思います。そうなると確かに民主化は推し進めやすいけれど、何もかもが明晰でハイファイな世界に対して疑念を持つ人も出てくるのも仕方がないですね。それはインターネットによって深さを喪失し、陰影を排しシャープで平面的なemojiとなってしまった人類の感情。もはや意味だけの世界、アイコンだけの世界。意味からは意味しか作り出せないので、魔法のようにいくつもの奇跡を生み出すように見える無意味さ(遊びとも言える)はバグ扱いされてしまう。それこそが面白かったはずなのに人類の感情は簡単にリデザインされてしまうことがわかります。22世紀はどんな感情を持ってる人類になるのかすごく楽しみです。しかし21世紀のこれからには不安しかありません。若い世代にどんな世界を残せるのか、それだけを考えていくのがいいのかもしれません。面白い遊びだし、やりがいもありそう。その前に自分自身が賢くならなきゃろくな世界を作れないですね。そう思っているので勉強会を始めようと思ったkさんに感謝しています。ちょうど自分だけでなくみんなが賢くならないと何もよくならないことに気づいてもがいていたところ https://twitter.com/coffee_ippku/status/1501129847178874880?s=20&t=dfDFxRqzTApQ9GCmQlpP3w だったので素晴らしいタイミングです。
検索するだけで知った気になってしまう自分やこの世界とやはり古い価値観の上でしかリッチで居られないから権力に固執しているやさしくない人たちに対して危機感を感じています。どちらもすごく賢さに欠けていることの例えです。みんなで賢くなっていくことで一番有効な手段って勉強会ですね。勉強って言葉に面白さを感じない人々に対しても、これは面白い遊びだよ!っていう表現をして学びに取り込んでいく方法をセサミストリートや進研ゼミは早くに気づいていたんだなと思うとそれらに対しても見方が変わってきますね。

平和のために「なるべく怖さの少ない対話への導入マニュアル」を作ろうと思った。

テーブルとその上に置かれた二つのコーヒーカップ、あるいは一本の中瓶と二つのコップを挟んで目の前にいる人と対話をする。

目の前にいる人と、普遍的な人というものと、その中に存在する自分を映す鏡と向き合う時間が死ぬまでに幾度とある。謎の時間。

 


ぼくは物心ついた時から今までずっと人が怖いと思っているという自覚がある。怖い人では無いとわかっている人に対しても怖さがある。その怖さとは嫌われる可能性に対して慎重になっているために生まれた心の反応だと思う。なぜ嫌われることが怖いのか、色んな人が居るんだから自分の事をみんなに好きになってもらう事なんて1000000%不可能だってわかっているだろう。でもぼくはその人の事が知りたいと思っている。相手の心が閉じてしまうと本当の言葉を引き出すことは1000000%不可能になってしまう。本音では無い会話にどんな面白さがあるのだろうか。ただ1000000%本音でしか話せないぼくには目の前にいる人を意図的に喜ばせる事など100000000000%不可能なんだ!

この矛盾が生み出す恐怖を乗りこなすほどの度胸も無く、鬱々としながらも対話こそが大事だと信じて、今では精神障害を持つ人たちと一緒に過ごす仕事(本当に夢だった)に就くことができ、日々傾聴と対話を繰り返している。高校生の時放送部で朗読とアナウンスの練習に時間を捧げ、吃音が幾分かましになった事が本当に今に繋がっている。

 


対話のシーンに話を戻す。

話題は何も用意していないのにフローリングにばら撒いたビー玉のように幾つかの軌道を持って対話が転がり始めたら。あれを言ってみよう。

あれ、それ、これを、

一緒にあれをやってみませんか。

あれとはなんなのか。おそらく今日ではなく翌日以降予定を合わせてやる事である場合が多い事なのだろう。だってもう眠いから。

今までにたくさんの音楽家と友達になったけれど、今度一緒にあれをやろうというのはお決まりのセリフでどちらかが言う事になっている。それは必ずライブの事を言っているのだ。わかりやすくて助かるし、そう言ってくれた人達とはほとんど必ず共演する事が叶っている事が嬉しい。コロナ禍に入ってからはライブやパーティのお誘いを数えきれないほど断り続けているのだが、それでも誘ってくれる友達がいてとても嬉しい。

 


・作品

・バンド

・スケボー

・パーティー

・シェアハウス

・弱いzineの制作

 


以上が今までの人生でその時目の前に居た人にぼくが提案してきた事(少なっ)。

そしていつの間にか始まっていつの間にか終わったりした事。それらの事が"結果"なのだとしたら原因は対話にある。その夜の対話が種となるのなら対話なしには何も"結果"は開かない。コロナ禍で対話する機会が減って、その結果、"結果"が開かなくてもさみしくはない。「それは全て偶然なのだから」という呪文を用いるだけでいい。というようなツイートをして無味無臭のハートの記号を貰うんだ。それでいいかな。

 


でも待って、いいわけない。

だって対話が無ければ簡単に戦争は起きる。起きている。そこには抗えない絶対的な無力と幾度となく終わりない気絶を繰り返すような苦しみがある。爪で黒板を引っ掻く音の中に放り込まれるような絶望がある。

この世に麻痺する暇など無い。無いのだが、疲弊し切った神経はこれ以上の苦しみを拒絶する。NOWARと声を上げる事しか出来なくてもそれさえも出来ないくらいに摩耗してしまった。

対話はどこへ?2022年に電波ヨーカイザー(昔の携帯ゲーム機、流行らなかったから昔も誰も持っていなかった。現在はいうまでも無い)を携帯しすれ違い通信を試みるべく途方もなく歩き回っているようだ。教えてあげよう、電波ヨーカイザーを携帯している人は現代には居ないし、auは今月末3Gを終了する。その上かつて何処でも掘れば湧き上がっていた豊潤な対話は枯渇し、"結果"ばかりが高騰、スピードとコスパの時代へ。人類史上誰も明かすことのできなかった正体不明の謎感情であるさみしさに苛まれ180°角度のズレた対症療法としてのSNSが稼ぎまくる事態に。深いさみしさに苛まれつつもコスパの良い心の安寧を求めるヘビーユーザーたちの期待に応えるべく見たいものしかおすすめしない優秀なアルゴリズムはやはりスピと陰謀論者を融合させてしまい世界をクソふざけた脅威に陥れている。doom scrollerたちの親指を見ろ、発達して長すぎる(ウソ)。インターネットといえば利用者の少ないdiscordサーバーの片隅でなけなしのヌクモリティが微かに散見されるばかりになった。

 


人と人がいれば自然と対話ができるのだという慢心が戦争に繋がってきた。何処にいても誰かと繋がれるデバイスとしてのスマホは人間の心をハブにして文字や画像が行き交うだけにしてしまう。心って頼りない。性善説性悪説、どちらも心に頼り過ぎている。心って脆い概念だ。スマホが無くても飛行機がなくても伝言ゲームで人間はずっと繋がっていた。インターネットで遠くを近くのように知る事ができるようになっても戦争が起きているのだ。心は弱い概念なんだ。心を強くすることは出来ない(人を殺す凶器として精神論を振りかざす自己責任論は誰の為になっている?あと数年でこの世を去る老人権力者の無慈悲な小遣い稼ぎだ)。頑張るな。脱力せよ。もっと遅く、もっと弱く居ていい。話は絶対にそこからなんだ。各々が立ち上がる気力を持っているタイミングで差別を無くす方向に声を上げたり(不思議だけど声を合わせると大きな声になる)、"仕組み"を創造したりすることによって未来の社会を心にとってバリアフリー化していくしか平和は永遠に訪れない。そのためにインターネットを使いたい。昔から今でもずっと人間が獲得したくても獲得出来なかった本当のデバイスは最新のiPhoneではなくてスティーブ・ジョブズの心だし、MNPで買ったのか借りてるのかわからないちょっと古い売れ残りiPhoneで得たかったのは可視化されやせ細った繋がりではなくファクトチェックするまでもなく明らかな終戦のニュースなのだと思う。決して自民ネトサポの自演ネトウヨたちが小遣い稼ぎに吐くヘイトスピーチではなかった。決して神真都Q(何だそれは)による吐き気がするほど醜悪なノーマスクデモの告知ではなかった(命懸けで救命している医者やエッセンシャルワーカーの事を彼らが考えることができないのは文字通り致命的だ)。

ファクトチェックが難しい大手メディアの流す情報を疑う勇敢な気持ちは大事だけど、なぜ明らかに出鱈目な陰謀論なら頭から信じる人々が増えているのだろうか。目に見えない世界で選ばれている自分を救ってくれるために働いている救世主たちの存在を信じたいのだろう。自分が選ばれている気持ちになるために陰謀論を無限に作ってはそれを間に受けない人々を無知だと笑う事によって心の安寧を得る(経済的な事を考えると無料だからコスパの良い安定剤だとは思う)。それを煽って金を稼ぐ事ってそれが好きな事だとしても良く無いよ。今すぐに止めようよ。何かに目覚めていると勘違いしてる奴らはワクチンや向精神薬を疑う前にコイツらを疑えよ。

 


ごめん、声を荒げた。そういう怒りの気持ちはずっとある。でも彼らとぼくと何が違うのか、偶然触れてきた情報が違うだけなのだ。ただ彼らの気持ちになっても彼らを変えることはできない。代わりの薬を手渡す事ができるまで。それは「なるべく怖さの少ない対話への導入マニュアル」なのでは無いか?ふとそう思った。そういう内容の自己啓発本は無限にあるけれど、一人により書かれたものでは例え真剣に実践したとしてもそれは対話ではなく演技にしかならないだろう。情報ジャンキーである僕らにはコスパの良い真理ではなく、色んな人による生きたアドバイスが沢山必要なのだと思う。小遣い稼ぎに作られた稚拙なまとめサイトは必要ない。コスパ良い真理も無ければコスパ悪い真理も無い。安定した企業に就職したい気持ちはよくわかるけれど、一つの答えを追い求めてそれを安寧の地とするのは苦しいと思うけれどとりあえずやめて欲しい。一旦あなたの政治的な思想も、信仰している宗教の事も、心の片隅に片付けて、あなたと世界のすべての根幹を担っている対話について今一度興味を持ってみて欲しい。それは人を知るためのインターフェースなのだから。

 


これから対話について興味を持つための仕組みを創造してみる。手始めに「なるべく怖さの少ない対話への導入マニュアル」を作っていきたいと思う。

 


○対話がこうしてうまくいった。

○こうなったからうまくいったと思った。

○対話がこうしてうまくいかなかった。

○こうすればうまくいったのかもしれない。

○対話が好きになりたいけどなぜ苦手なの?

 


こう言ったテーマでみんなの体験談やそれに対するアドバイス、アイディアなどを出し合って、それを後から参照しやすい形にしたい。

 


以上のテキストは平和のために、差別をなくすために、音楽以外で出来ることを考えて今思いついた事です。どう思いますか?

 

 

 

 

3/7追記

 

https://discord.gg/cnjCHfwyjY

弱いzineのdiscordに「なるべく怖さの少ない対話への導入マニュアル」を作ろうのコーナーを設置してみました。
例えば

○対話がこうしてうまくいった
○対話ってなに
○こんな対話がありました
○対話ってこういう事かも

など何か思いついたら誰でも気軽に書いて欲しいです。

対話を促す仕組みを作るっていう遊びです。面白くなりますように...!

コロナまだ終わってません。オミクロン株

職場でクラスター起きちゃった。今週から在宅勤務。みんなの健康状態の確認を電話でしている。無事でいて欲しい。

 

罪と罰を読み終わった。面白すぎた。

 

今日は久々鬱っぽい。何もやる気が出ない。スタジオでバンド練習したいけどさすがに自粛している。

明日はギターの弦変えたいし、コヒも焼きたい。確定申告もしなきゃな。

とりあえず寝てみようかな。寝たら明日になっちゃうな。時間が無いんだけどな。

途方に暮れている。果たしてコロナは終わるんかな。ブラジルでは今日1000人亡くなったそうだ。

コロナなき世界で旅行に行きたいよ。夢ではいつも旅をしている。

夢ばかり見ていて、虚しいな。

今日はラジオを一日中聴いていた。知らない流行りのJPOPが流れ続ける。みんな作るのが好きなんだと思うけど、音楽が好きな人がいないように感じた。なんなんだろう。

今日は朝うどんを食べて、昼過ぎにチャプチェと蒸し豚を食べた。美味しかったな。はじめての自家製キムチ、日々美味しくなっていく。

美味しいものを食べるとうれしい。ラジオ聴くのも楽しかった。snsやdiscordでは知ってる人が話してる。みんな生きてるんだね。

空しさは絶望感からきている。

何をすれば良いの。どこに帰ればいいの。

 

今日見つけたヤバ過ぎる音楽家

https://www.youtube.com/watch?v=itEpyZl1LyE

バンドで歌う

今年はユリシーズの2ndを絶対つくる。

バンドを再び動かそうと思う。

コロナ禍でライブ出来なくなって、バンドはずっと休止してた。メンバーにはよく会ったり連絡取ったりはしてたけど、僕にとってバンドはライブすることしか目標がない事を実感した。

音楽は毎日聴いていて、食事と同じくらい大事なんだけど、こんなに音楽が好きなのはライブを観たいからっていう気持ちがやっぱり強いからだし、ライブを観たり、ライブをしたりすることって生きていくために必要なのではなく、生きること以上に好きなんだと思った。でもそれは完全にコロナ禍以前の話になってしまった。コロナ禍でもイベントを強行する態度には反対だからだ。参加することに対してもそう。でもそれでも大切なベニューやカルチャーを守り続けてきた人達がいて、僕は引きこもっていただけだからそういう人たちに顔向けできない。

だからバンド活動することに対してめちゃくちゃ抵抗ができてしまった。

 

だけど、また始めてみようと思う。

新しいメンバーってわけでもないけど新編成でスタジオに入った。普通にこれしかないって思った。言葉のコミュニケーションはもう懲り懲りだ、同じ曲を何度もやりたい。言いたい事はそれだけだから。そう思った。

 

 

あと、

2月に3つライブのお誘いがあり、全てソロで、ありがたいお誘いだ。一応ここに書いておく。

一応というのは、この現状で開催される見込みが少ないと思っているからだ。

 

2/12 ミングルにて SUZMENBAとosamuosanai

2/19 音凪にて akamar22!と bikemondo と 환상 무용담(ファンサンミョンダン)これはぼくとウンラヌ澤野祥三くんのduo名義

2/26 加西市void 毎日寿司、マイ洀2人展にてosamuosanai

 

収まってほしいとしか言えない。

 

グッド・モーニング ますたに

昨夜も深酒した。日々年末感を飲み干してる。ミングルで開催されたなっちゃんと家口さんの鍵ハモとシンセ(2人とも片手で鍵ハモを吹きながら片手でシンセも弾く)のクリスマスコンサートはめちゃくちゃよかった。目を開けば目前でめちゃくちゃ難しいことをしてるのに目を閉じればアンビエントかつエモい絡み合いのあるセッションだった。ベースの音もナウい感じでカッコよかった。

 

朝はやはり雪が降っていて、大雪警報も発令された。寒すぎて毛布から出られない。でも昨日焼いたパナマのコーヒー豆を浄土寺のzigzagに届けなきゃだし頑張って腰を上げた。デカフェを半分ブレンドしたコーヒーを飲みながらふじちゃんと昨夜の面白かったことを色々話して思い出し笑いをする。いつもと同じ朝だけど、文字にしてみたら尊いな。デカフェが混ざったコーヒーは丸い味がした。室温ですぐ冷たくなる。こたつの部屋では昨日家口さんから買ったmarronさんとのレコードが回ってる。すごく良い音楽!!

 

玄関から比叡山を眺めるとやはりてっぺんは白くなっており、アスファルトを見下ろすと積もってはいなかった。最近よく見かける1羽でウロウロしてる白くて丸い鳥が鳩のようにうろうろしていて何か食べてるのかなと観察する。小さい石のようなものを啄んでは投げたりしていて、そのかわいさに全身がじわり痺れた。ガビーからもらったフードに首を突っ込んで久々に自転車の鍵を上げた。職場が宇治なので徒歩と電車ばかりの生活になった。思えば小学生の時から30歳になるまで毎日何キロも自転車を走らせていたような。自転車にあまり乗らなくなると、ただの移動手段というよりスポーツしてる感覚が蘇ってくる。そういえばこの自転車もガビーからもらったものだわ。古いけどまだ乗れそう。雪がサラサラ降ってる。信号待ちで鴨川の鳥を見る。雪がサラサラ降ってる。信号待ちで百万遍に居る。今日は吉田寮のクリパがあるらしい。雪は光る。信号待ちでマスクを外す、ますたにの匂いがした。

 

浄土寺エリアに入るとみーこさんに会った。浄土寺エリアに入るといつも急いでどこかに向かってるみーこさんに会う。こないだはありがとうと言い合って別れた。

 

浄土寺zigzagに着いたら開いていなかった。インスタのDMを確認したら昼過ぎから開くっぽい事書いてる。まだ朝の10時だしコーヒー豆を店の外に置いてあるチャリの籠に入れた。もし盗られてたらまた昼過ぎに持って行こう。

 

久々にますたにに行くことにした。浄土寺のシェアハウスに住んでた時は近かったから何も考えずによく行っていた。今では外でラーメン食べる事もほとんどなくなった。木屋町でみよしに紅しょうが突っ込んだものくらいしか...。

 

先日ごみ収集員だった時の大先輩の高田さんが亡くなって深い縁のある吉田寮食堂でお別れ会が開かれた。故人が最近稲刈りを手伝ったという泉さんの田んぼで取れた稲で飾られた祭壇が美し過ぎて、胸が苦しくなり、久々にに会う仲間たちともあまり話をせず手を合わせた後すぐに離れてしまった。あの日吉田寮食堂に覚えのある匂いが漂っていた。祭壇にはますたにのラーメンが御供えされていた。テイクアウトしてきたものらしい。彼はますたにがとても好きだったし、ますたにを20歳の僕に教えてくれたのも彼だったと思う。ごみ収集車の中でよくラーメン談義をしたし、お昼ますたににもよく連れて行ってくれた。ごみ収集車は肩身が狭くなっており路駐してるものならすぐに通報されるようになっているので彼は2人の収集員をますたににおろして通報されない場所に移動してくれていた。ラーメンを食べ終わり彼の携帯に電話をかけると迎えに来てくれることになっていて、彼の電話番号が僕のアドレス帳に入っている。彼に電話をかけるのはその時だけだった。ほとんどのドライバーはそんな面倒な事はせず収集員たちを会社や再搬所まで送って昼休憩をとるのだ。出勤し、アルコールチェックをして、配車表のメンバーを確認する。今日は高田さんと東部か、ますたにだな。という具合で仕事が始まっていたことを思い出す。思い出す...。

 

ますたには朝10時からやっておりラーメンとチャーシューメンとごはんとたくあんしかメニューがない。ドリンクも水だけ。たくあんは頼んだことがない。100円するけど頼む人いるのかなといつも思う。今日もラーメン大、ネギ多めで頼む。このネギがくさすぎて好きだな。大盛りは2玉の中華麺がどんぶりいっぱいに詰められていて、真ん中から掘っていくように食べる。餅のように固まりかけた麺をほぐしながら食べていると密度がすごいのでスープに絡まないからテーブルに置いてあるカエシと透明のお酢、唐辛子をかけながら食べる。スープはモツ鍋のようだと思う。モツ鍋の締めを食べてるような感じ。おいしいね。

 

タバコを買って家に帰るとふじちゃんは最近勉強してる日本画のニュアンスで年賀状に虎を描いていた。上手くなってると思った。昨日ミングルで買ってきたboredomsのSUPER77のレコードを回してる。最初聴いた時音がすごく悪かったけどそういうもんだよねという思い。針の埃をとって聴き直すと全然違ってめちゃ良いわこれ。NEU!グランジ的な解釈だと思う。

 

みんな元気?

 

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ライブを観に行った。

SUZMENBA、数えきれない、ムーズムズ。

DJは森川さん、井上さん、仙石さん。

THEアバンギルドって感じのパーティで、2回コロナでキャンセルになったこともありみんなが待ち望んでやってきた感があった!テーブルは出ていたけど満員だった。久しぶりにすげー踊った。たくさん涙が出る瞬間があった。生きていて良かったと心底思った。僕もライブしたいなと思った。

 

自粛期間を経て、いつの間にか人に会うことがとても苦手になったなと感じている。でもそれなりに生活はできるようになってきていて、鬱との付き合いも慣れてきた。コーヒー豆もたくさん焼いている。

 

だけど、パーティが繋いできたコミュニティって本当にかけがえのないものだと思う。

僕らは病気になった時どうすればいいんだろう。コロナなら病院に行く。でも鬱なら?

仕事や学校など鬱の原因が環境にあることがわかっているなら、その環境を変えるために必要な精神的な松葉杖を病院に行って処方してもらう事が出来るかもしれない。

でも薬を飲んでも社会的な環境は自分の力だけでは変えることはなかなかできない事ばかりだし、そもそも薬は特効薬などないから付き合い方も難しく、通院でさえ慣れていないと難しいだろう。服薬自体にも大きなリスクがある。病気になる前の段階で、小さな問題を解決できていけば元気でいられるのにね。

 

そういった生きるための知恵をどこで交換できるのか。悩みを相談する相手は誰なのか。

SNSにはたくさん知人がいる。会わなくても彼らが生きているような気がして、会う必要がなくなってくるのかもしれない。でもほんとはそんな事ないはず。会いたいってどういう気持ちなんだろう。

会うって事は誰かを身近に感じたいという事だ。だけど行為としては自分を相手に身近に感じさせてしまう事でもある。これがすごくプレッシャーに感じて嫌だ。

誰かに会いたければ連絡をすればいいだけなんだけど、会って自分の事を好きになってもらわないといけない。好きじゃない人と一緒にいるのは本当に苦痛だから。当然だけど色んな人に好かれるような人には誰もなれない。面白い事を言ったりすることもできない。目の前にいる人を自分という存在を用いて楽しませる事ができない。そう悩んでいる人は大勢いるんじゃないかなと思う。まあぼくはそうなんだけど。だから目的なく人に連絡して会うということは難しい。

 

でもパーティはそれを解決する。

 

パーティの根本はみんなを呼ぶ事だ。みんなが集まればコミュニケーションが発生する。会話だけじゃ追いつかない存在を用いた原始的なコミュニケーションが。好きな人たちを身近に感じる事ができるし、同時に安心して他者にもなれる。そういうのが良いパーティだと思う。企画者目線だと様々な状況のオーディエンスに配慮したセッティングは大変なんだけど。

 

これが年一回の健康診断よりもぼくらの生活を支えてくれるように思った。そろそろ次のコロナが猛威をふるい、再び僕らは分断されるのかもしれない。2月にライブの予定をいれたけれど、キャンセルになるかもしれないと思っている。だけどこの日のパーティの記憶はきっと死ぬまで消えない。それくらいのインパクトがあったから。脳内であの日は続いているし、頭の中で遊んでるよ。

 

https://youtu.be/brBkltukTHY

 

 

 

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昨日はふじちゃんとななちゃんの家を訪ねて、物資と料理を届けた。そのあと一人も入れない満員過ぎるやきとり一番に振られたあとゴールデンモジャホールにいったね。ほんとに幸せな時間だった。そんな時にサザンの後に佐野千明さんのやさしい魔法が流れて、とても好きな歌なんだけど、胸が押しつぶされるくらいのキラーチューンだから最近はあまり聴かないようにしてたけど、大事なこと思い出した。大事なこと思い出すような歌が必要だということを。

 

朝はサザンの1stを聴きながらギターの練習してた。めちゃいいけど酷いアルバムだった!最高とは言えない。でもめちゃくちゃ気持ち良くギターが弾けるんだ!!!!!!!