メモ

その話みんなが本に書いてたよね。障害者っていうのは現代の医学が作った定義によってその病名がつけられるだけであって、現代社会で健常者として生きることに対する障害を持っているという免罪符だと思う。
例えば大柴さんがみんなとうまくやっていけないことに悩んで心療内科に行っていたとしたら自閉症ADHDだと診断されていただろうし、脳外科に行っていたら腫瘍が見つかって、脳の障害だという診断が下ったと思う。あるいは刑務所に入っていたら観察保護下に置かれていたかもしれないし、それによって自分は障害者、病気、犯罪者なのだから人を傷つけてしまうのだということを理由に生活していたら、どうなっていたのかなと思う。実際生活に困っている人は障害者なれるし、犯罪者にもなれる。それによって楽になれる人も沢山いる。でもそれは偶然現代社会で生きているからであって、国や社会が違えばまた違う存在価値が与えられたりする。でも与えられる存在価値はいつでもどこでも不当で不要なものだと思う。大柴さん、或いはその当時の高円寺界隈という台風の目に集まるアーティストたちは少なからずアバンギャルドである事という抽象的だけどシンプルな共通した目標があったわけだし、それは言い換えるとしたら、他者から与えられる存在価値は捨てるべきであり、比べられない自分の表現を持つことが重要であるという事なのだと思う。大柴さんはただ、正直にそういう風に生きている人が集まっているのだと信じていて、自分もそういう風に生きて表現をしていった、超正直な少年なのだろうなと思う。でも実際は小さな前衛アーティストの世界も縦社会が蔓延っており、空気を読みつつ牽制と助け合い高め合い慰め合いの世界。そんな事大柴さんは気づいていたとしても全く興味が無かったんだろうなと思う。それが痛快だね。

死んでから評価される事って良くあるけど、生きている時にその人の事を尊敬しているとか発言したら、その事を嫌っている人に攻撃されるからなかなか手放しに評価できないんだと思う。

実際、客商売だけでやっていたら有名にならないと金にならないし、知名度を上げるための縦社会がバンドマンの世界には強くめんどくさいものとして存在してる。それと矛盾するかのようにアバンギャルドである事の必要性は生きている作家の魂に火を点け続ける。同じ事を繰り返してはならないという繰り返しは、大柴さんを自然と自分に溜まってきた一方的でありがた迷惑な評価や信頼を破壊するような方向へ導いていたんだね。でも大柴さんの残した歌たちは優しすぎるし全く破壊的じゃないし、ただ最高なだけだよ。

 

そうだよね。
実際は天才にしか分からない暗号なんて本当は無いと思う。でも逆にフラットな目線でいる事が出来なくなり、用意された凄さにしか反応出来ないひとたちは増えていると思う。

うまく落ちる練習では3つのリズムがあったけど、
(1つがdoll human vamp ghostの服によるオルターエゴ。
もう1つが向きあったときの位置によるオルターエゴ(セックスの事、願望を実現する事、同調する事、異質へ攻撃を仕向ける事。)
あと1つが服を脱いだ時、或いは演者の身体。

2つのエゴが高速に入れ替わることにより演者の身体が消費されていき、そのせいで消耗されたエゴの道具としての欠陥生が次第に表層に現れていった。
私が私であることへの認識とは手足の様に人間が社会を持ち繁栄する生命であるために進化して生まれた器官、つまり食うための道具だと言われて来たけれど、人間らしさの定義は時代によって都合よく書き換えられていったし、そのせいで世代間の倫理観にはギャップがある。
現代ではSNSのサブ垢しかり沢山のペルソナを持たざるを得ない暮らしを強いられている。インターネットをやっていない人は社会にそういう人を演じさせられてしまうし、逃げ場がない。ペルソナどころかエゴを複数使い分けている様な状況。そのためになんでも良いからアイデンティティが無いと不安で、ネトウヨが増えたりしてるんだと思うし。

最初は生命を維持するための食っていく道具としての生まれたはずのエゴなのに、エゴに身体を消費させられて疲弊していく始末。

今までの人間は身体に魂が宿っていて、身体が無くなっても魂は死なないと説いていたのに、今日ではエゴを複数使用しないと生活がおくれず、そのうえ無駄なエゴに身体が消費されていき自ら滅亡に向かってスキップしている。

レイヤーを用いてわかりやすく見せていくことは難しいけど、めちゃうまく出来ていたと思ったし、衝撃を受けた。
最後に2099年我々は人間との戦いに勝利した。というミニブログみたいな宣言も最高だった。エモかった。誰も人間に勝利してない。強いて言えばエゴが身体に勝利したのかもしれない。しかしエゴは身体にしか住めないものだから結局人間が滅びただけ。
戦争も同じで、国が他の国を侵略する時に戦争を起こすけれど、協力することもあるし、結局地球の上での大量殺人でしか無いわけだし、自分もどの国で生まれるとか選んだわけじゃない。資源も減るし、人類が滅亡に向かってスキップしているだけでしか無い。感情がそれに振り回されているだけ。殆どの人類の感情はきっと殺しに反対なんだけど、簡単に集団意識のアルゴリズムに取り込まれてしまう。
戦争に勝ち負けはあっても、戦争が起きている状態とは人類の繁栄にとっては負け状態である。
その大き過ぎる不条理を最後に政治的なテーマとして持って来た様な終わり方でかっこよかった。

僕は表現始めた時に偶然サイケデリックと呼ばれる類の音楽が好きだったから凄くサイケについて考えてた。大学でもサイケデリクスについて研究してたんだけど、僕のゼミの先生がLSDを最初に日本に持ってきて研究してた人の一人なんだけど、今はその人は気功の先生もやっていて、サイケデリクスによる変性意識状態から興味が変わっていたんだよね。先生だから違法なドラッグを生徒に安易に勧められないという理由もあるとは思うけれどドラッグの使用を僕らにお勧めしていなかった。僕はロックからサイケデリクスに対する関心を持ったからドラッグについてその先生から教えてもらいに行ってたんだけど、表現において言えばその先生がドラッグをお勧めしないことはあながち間違っていないと思うようになった。何故なら表現はフラットな目線をオーディエンスに与える事が重要だから。
例えばLSD好きならロック好きになるし、マリファナ好きならヒップホップやレゲエが好きになる。MDMA好きならテクノ好きになる。酒が好きならブルースで、コカインならジャズだ。
現代だとそれらに加えて鬱をもっていると鬱デリックだし、高くなったタバコの代わりにSNSのいいね中毒であったりする。現代のドラッグはもう薬物ではなくなっている。薬なら飲む飲まないの身体的な選択ができるけれど、エゴを介したドラッグはドラッグだと認識され辛い。でも、韓国にはすでにソシャゲ中毒患者の更正施設があるらしいダルクみたいな。

僕らは目に見えないだけでそういうジャンキーたちを相手に表現しているんだなって思った。そこでは単純な共感など武器にもならない。
丸腰に近い状態で、ここに身体が立っている事を強く認識させること、簡単に評論をシェア出来ないような、したくなくなるような内向きな構造、
重圧なレイヤーをフラットにみせること、
そういうことが、これから大事になってくるんだなと思わせてもらった作品だった。
あの日の僕らのライブは三野くんの作品へのアンサーになっている側面もあるけれど、とりあえず今書いた表現に関わるこれから大事だと思ったことは貫けたわけだし、人間に勝利したと言ってもいいと思った。不思議な言葉だ