家入さんの本からコピペした文章だけど禿同

インターネットの世界はむしろ縮小している
 ぼくが初めてインターネットに触れたときは、それこそ地図もないまま、広大な海に放り出されたような感覚を覚えました。ありとあらゆる情報にアクセスできる、その可能性を感じていつまでも海をずっとさまよっていたけれど、調べたい情報自体、さほど多くないことに気づきました。
 確かに検索機能が発達したことで、膨大な情報の海の中にいても欲しい宝物へと、最短距離でたどりつけるようになりました。しかし、むしろ簡単に見つかるようになった結果、人はそこから取捨選択することに悩むようになりました。自由すぎる状況が、逆に不自由さをもたらした、ともいえるのかもしれません。
 低コスト、低リスクで情報発信できるようになり、インターネット上にはコンテンツや情報があふれているのだから、その海に溺れる人が出てきても不思議ではない。そんな人たちが増えてきたからこそ、救済する道具の一つとして近年流行したのが、「キュレーション」と呼ばれる、インターネット上に散らばった情報を選び出してくれる機能です。
 たとえばニュースキュレーションアプリなら、それを使うほどに、使用者の興味や関心を把握し、情報を使い手に合わせて選び出せるようになる。セレクトされた情報を本当にユーザーが欲しているかという精度も、アプリを使うほどに高まっていきます。それはまるで、欲する情報を把握して、新聞から切り抜いて渡してくれる優秀な秘書のよう。
 でも、ぼくはこれもいいことばかりではないと思います。
 キュレーション機能のおかげで、みんなそれぞれ優秀な秘書を持った結果、どうなったか。広い情報の海を小さく切り取り、世界を分割してしまったのではないでしょうか。
 無意識のうちに見たいものだけを選び取る。自分好みの意見ばかりを吸収する。これが進めば、人は自分の好むものをさらに好む傾向が強まっていく。興味関心のあるものだけで、自分のまわりを固めてしまえば、それが一番気持ちいいからです。
 当然、あるアイドルファンの元には、そのアイドルの情報ばかりが集まり、左寄りの情報を求める人には左寄りの情報ばかりが集まります。しかも膨大に流れる情報の海の中で、閲覧できる情報の量、範囲、時間はますます限定されていくのだから、幸せ、と感じられるものを見届けるだけでやっと。
 そうなると知らず知らずのうちに「この世界はあのアイドルファンであふれている」「この世界に右寄りの人なんていない」というような、極端な世界観に取り込まれてしまう可能性も否定できません。これを繰り返した未来はいったいどうなるか。その人の世界は情報の海の中で、むしろ、どんどん狭くなっていくのではないでしょうか。
 そうなったために、ふとした瞬間、自分の欲していない情報が視界に入れば、極端な反応をしてしまったり、遮断してしまったり、ときにはバッシングをしたりしてしまう、という状況が今、目の前で起こっているように思われてなりません。
 現実として、他の世界を見せない閉ざした状況が、歴史上どんな悲劇をもたらしてきたか、想像することはたやすいのに。
 こうしてインターネットという大きかった一つの世界は、あまりに大きくなりすぎたために、むしろ個々人の小さな単位に分断されることを選ぶようになりました。
 最近、ぼくは「インターネット=居心地のいい小部屋」のように感じる機会が増えています。手を伸ばせば書棚からお気に入りの本が取り出せる。目前のテレビをつければずっと好みの番組だけが放映されて、オーディオのスイッチを入れればお気に入りの曲が絶え間なく流れる。こぢんまりした部屋の中に好きなものがすべて揃っている、といったイメージといえば伝わりやすいでしょうか。
 きっとその部屋に留まっているぶんには、部屋の持ち主にとって、それ以上に快適なことはないのかもしれません。でもその部屋からは、晴れているのか、雨なのか、暑いのか、寒いのか、外の様子をうかがい知ることはまったくできない。
 間違いなく、インターネットの世界そのものは、相変わらず加速度的に拡大を続けています。一方で、個々人が触れる世界だけを見れば、より精度や感度が高くなったぶん、ムダが排除され、どんどん縮小を続けている。個人を中心とした小さい、分割された世界がたくさん生まれていて、趣味嗜好はもちろんですが、政治信条などが異なる人がいい意味で交わることも減ってきている。だから近年ヘイトスピーチなどが増えているのも、当然の結果のように思います。

 

無理強いされた表現としての「批評」
 インターネット上に流れるニュースのコメント欄や関連する掲示板を見ると、一般の人が、批評や批判を書き込んでいます。もちろん、思いもよらないような視点に驚かされることもあるけれども、その多くは、本来の批評として求められるような質には遠く及ばず、ほとんど価値があるものには思えません。
 たとえば「最近結婚した女性芸能人の妊娠」といった、明らかにおめでたいニュースにすら、ネガティブな書き込みが寄せられるのが普通で、これまでも世間にあったかもしれないが表立ってはいなかった「いびつさ」の存在を、インターネットが介することであらためて認識したのは、ぼくだけでないでしょう。
 ひとたび「Facebook」を覗けば、タイムラインにはニュース記事のURLを貼り付けて、持論を声高に語る「評論家」であふれています。
 特にぼくより上の世代の男性に目立ちますが、一家言持っているような雰囲気を醸し出し、ときには暴論に近い意見をインターネットの力を借りて発言しています。大きなニュースが起きた際には、タイムラインがそういった評論ばかりで埋まっていたこともあり、それで「Facebook」を開くことがおっくうになっていた時期もありました。
 どうしてこうなったか、ということを考えれば、先述した「一億総表現社会」が行きすぎて、皆総じて「何か表現しなくては」といった強迫観念にかられて、ときには表現を無理強いされてしまった、その結果のように感じます。
 どこの居酒屋に入っても、仕事終わりのサラリーマンが政治や会社の愚痴や批判を肴に、お酒を酌み交わす光景が広がっているように、そもそも無責任なレベルでの批判は、とても容易な表現です。人がどんなに精魂込めて生み出したものであろうと、それを「批判する」ということだけなら、さほど大きな労力は必要とされない。0から1を生み出すことにかかる労力に、到底及ばないエネルギーです。
 そこにインターネット特有の匿名性が加われば、批判や批評はさらに容易になっていく。そう考えたならば、現在のインターネット上で何かを「批判せん」とする声がここまで幅を利かせたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。
 匿名のまま批判する側に回ることができれば、批判対象の外部、いわば安全圏に身を据えることもできます。お笑い芸人であるマキタスポーツさんの著書『一億総ツッコミ時代』(星海社新書)によると、ツッコんでいるうちは何かを言っているような気になれるのだそう。ツッコむだけで、批判するだけで、自動的に誰かの上位に立ててしまう。 
 何かしらの表現を無理強いする今のインターネットでは、皆が皆、ツッコミ役、いわば批評家になりつつあります。ぼく自身は批評をすることが美しい表現だとはまったく思っていないので、そこでの労力が無為に感じられてしまいますが、結果的に、ボケや受け手のほうが完全に不足している状態にあるといえるかもしれません。
 心理学者であるアブラハム・マズローが説いた「欲求5段階説」によると、成熟した社会においては、生理的欲求、安全・安定の欲求、所属と愛の欲求(社会的欲求)、承認の欲求(尊厳欲求)、自己実現の欲求と、この順にそのレベルがどんどん上がっていくとされます。
 そして成熟した社会で暮らす日本人の多くは、まさにそのピラミッドの頂点に立っていて、自己実現の欲求を満たそうと必死になっているように感じています。そして「一億総表現社会」の今、その欲求を充足させる手段として、インターネットの力を借りることで手当たり次第に批評する、といった行動をとってしまっているのではないでしょうか。

 

今は、匿名であろうと発言が評価されたり、反響を呼んでフォロワーが増えたりする状況が生じています。だからこそ人はどこに行っても、何をしていても、誰かに評価されたいと願うようになりました。かつての「欲しがらない名無しさん」すら「欲しがる名無しさん」になってしまった。その結果、評価を得るために、ときには無理をし、自分の許容量を超えたキャラクターを演じて、収拾がつかなくなり、暴走や破滅への道をたどる、などという様子が散見されています。
 不特定多数の人が警備員となってインターネットの世界を巡回している中で、差別的なことを書き散らすアカウントが注目を浴び、アカウント主が実際に勤める会社や肩書、本名、住所などが特定され、晒された結果、会社に連絡が届くなどしてクビになった、という話題は枚挙に暇がありません。

 

近年に生まれた、ネットによって「すべてがつながっている」状況はつまり、すべてに「因果関係が生じている」状況ということ。つまりこれからの時代、普通にしている限り、ネット上で偶然は起きない、ということになります。
 だからおそらく、これからの時代、実は偶然を生み出すようなサービス、つまり「ランダム」こそ一つのキーワードになるのではないでしょうか。 

 

 

しかし今、インターネットがどこで介在しているのか、どこまでがその世界なのかが見えなくなっている中で、かつてぼくたちがインターネットに求めたもの、得たもの、すなわち「インターネット的」なものは、今やその外、つまりエクスターネットでしか手に入れられなくなったように感じています。だから、かつて「インターネット的」と定義されたあらゆるものは、もはや「エクスターネット的」と同義だと思うのです。
 わかりやすく言えば、今のインターネットを俯瞰すれば、誰もが顔なじみの田舎町のような感覚を覚えます。知っている人だけで作られた世界ですから、そこに好んで住んでいるあいだは不要なノイズは入らないし、傷つけられることもないし、漂うだけなら心地いいかもしれない。ただし、どこに行っても身内やそれに近い人ばかりで、見張られている感じもするので、どこか閉塞感があるのも否めない。そうした世界で満足できない人にとっては退屈で、窮屈で仕方ないことでしょう。